《「勉強会」便り》22
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9月の勉強会はキリストの昇天と(世の終わりの)キリストの再臨がテーマである。設問132で復活後40日の間は、イエスは「ご自分の栄光を隠して、普通の人間の姿でイエスは使徒たちに現れた」と説明されているから、「復活の栄光の姿」のイエスを見た使徒は誰もいなかったことになる。栄光の姿のイエスは世の終わりの再臨の日まで待たねばならないというのが教会の教えである。ただペトロとヤコブとヨハネだけにお示しになった「イエスの変容」(マタイ17:1−3)のお姿は、「復活の栄光の姿」の先取りであったと解釈できると思う(この点を梅原主任神父にお尋ねしたところ、同じお考えであった)。
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設問133で「栄光に挙げられたキリストは、教会のうちにすでに種の形で、またその始まりの形で神の国が現存している地上に神秘的にとどまられます」と訳した箇所の英文は“the
glorified Christ mysteriously remains in seed and its beginning
in the Church”であり、英語版カテキズム669項に同じ表現があり、そのin seed and its
beginningの部分を日本語版カテキズムは「芽生えと開始として」と訳しているが、参加者からseedには「芽生え」の意味はないという指摘があり、原訳の「種の形で、またその始まりの形で」を採用することにした。
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設問134の「過ぎ去るこの世界の最終の宇宙的崩壊」はカテキズム677項から採った訳文であるが「崩壊」と訳している英語はupheaval
である。upheavalに「崩壊」という意味があるのか疑問である(ちなみにわれわれの原訳は「大変動」であった)。
設問134の解説を読むと、世の終わりに最後の審判(公審判)が行われるのは「神の国」の実現のためであることがよく理解できる。7月の会合で設問125の陰府とは何かを議論したとき、なぜ「私審判」と「公審判」の二つの審判があるのかが話題となったが、キリストの再臨と神の国の実現を念頭におくと公審判の意味がよりよく理解できるように思う。
以上
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