《「勉強会」便り》21

  1. 7月の勉強会は4月の会合と同様、参加者の積極的な発言があり、設問125のみの検討で終わった。「陰府(よみ)」という用語に関する議論と、キリスト教徒ではなかった自分の親を初めとする肉親や先祖は死後どうなるのかと云ったことが話題の中心であった。
       陰府という用語は、キリスト教用語、それも新共同訳聖書の使用が定着してから普及した言葉である(日本語に「よみ」という死後の世界を表す言葉があるが、漢字で表記すると「黄泉」である)。
       また、使徒信条にカトリック教会が「陰府」という用語を採用したのは2004年のことで、それ以前は「死者のもと」という表現になっていた。また文語の使徒信経(信条)では「古聖所」となっている。「陰府」や「古聖所」は解説を聞かなければ、一般には何を意味する語か不明である。
       設問125の解説にあるように、「陰府」が「善人も悪人も、キリスト以前に死んだすべての人々の状態」であるなら、「死者のもと」の方が判り易いし、イエスが下って行かれたのが「陰府の正しい人たちのところ」であるなら、「古聖所」と表現するのも意味あることのように思える。日本語の「陰府」「死者のもと」「古聖所」は、どれも「地獄」をイメージする言葉ではないが、英語のヘル(hell)は、「陰府」と「地獄」の両方の意味に使われるので、設問125の冒頭に「この『陰府(ヘル)』は永遠に罰せられた人たちのいる地獄(ヘル)とは異なっていました」という解説がなされている。

  2. 8月の勉強会は設問126から131までのイエスの復活に関する箇所であった。参加者の関心の中心は、設問127と128で扱われているイエスの復活が歴史的事実であると同時に、歴史を超越する信仰の神秘の問題であるという点にあった。
       日本では、イエスの復活が歴史上の事実かどうかを問題にする以前に「イエスの復活は、後からイエスの信奉者が勝手に作り上げた架空の物語である」と頭から思い込んでいる人が圧倒的多数であるだけに、設問127の解説に「復活は使徒たちの目には不可能に思われたので、彼らが復活の物語を創案することはあり得なかったでしょう」と明記している意義は大きいように思う。
       カテキズムは「空の墓」はそれ自体復活の直接の証拠ではないが、本質的なしるしであるとし(640項)、イエスの復活を証言する人が多数いたことを指摘した上で(641,642項)、643項で「以上の証言を前にして、キリストの復活をその身体的側面を無視して解釈したり、歴史的事実として認めない事は不可能です。」と断言している。
       その一方で、設問128で、まことの神であり、まことの人であるイエスがその人性を伴って神の栄光に入られたという事実は歴史を超越する信仰の神秘に属する事柄であると説明し、そのことが復活したイエスがご自分を現されたのが、世間一般の人々にではなく、弟子たち(信仰者)に限定されている理由であると解説している。

以上