教会月報 巻頭言

2025年6月・7月​​​​​​

Habemus Papam? Habemus Jesum!

ダニエル 李 昇倫 神父

 去る4月、ローマ・カトリック教会はフランシスコ教皇を神様の国へとお送りしました。
フランシスコ教皇の死は私たちに深い悲しみをもたらしましたが、新しい教皇レオ14世がその座を引き継がれました。

 バチカンに注がれた世界中の視線は、フランシスコ教皇の生涯に注目し、彼が私たちに示してくださった謙遜の心、そして貧しい人と共に歩まれた道を照らし出し、伝え続けました。
全カトリック信徒の最高指導者として彼がお示しになった生き方は、人々の模範となり、多くの人に深い感動を与えて下さいました。
そして今、新教皇レオ14世が選出され、これからこの新しい教皇を通して私たちが進むべき教会の道に希望と期待が寄せられています。
教皇が名乗る教皇名には、今後カトリック信者をどのように導いていこうとしているのかという意志が込められています。
貧困と共に生きることを示してくださることもあれば、時に厳格な規律や規則を改めて、正し、定め、徹底していくことをお示しになることもあります。
多くの教皇たちは、自らが選んだ聖人の名前に違わず、その生き方を模範としてカトリック教会を導いて来られました。
私たちは彼らを敬い、従い、彼らのために祈ります。
教皇の死の悲しみの内にある今も、新たな始まりに喜びと期待を持ちます。

 しかし、私たちが忘れてはならないことがあります。
使徒ペトロから始まり、現在のレオ14世教皇に至るまで、彼らが歩んできた数々の道そのすべては、すでにイエス様が歩まれた道であるということです。
そしてそのイエス様の道の一つ一つを、私たちも共に歩んでいます。
その一つ一つが集まってできた途切れることのない一つの長い道が、やがて私たちを天国へと導いてくれるのです。
だからこそ、すべての道がイエス様へとつながっているということを見落とさないようにしなければなりません。
新教皇への期待と希望を持つことは、教会に祝福をもたらしますが、そこで留まっていてはいけません。
私たちは教皇を通して、その先にある真の愛と平和、そして私たちの救い主であるイエス様に出会わなければなりません。
もしイエス様に至らなければ、生涯を捧げた私たちの信仰は、ただの形骸にすぎなくなってしまうでしょう。
だからこそ、日々の信仰を今一度見つめ直しましょう。
私たちが歩んでいるこの道は、果たして神の道へと私たちを導いているでしょうか?
それとも、依然として自身の我や固執、欲望にとらわれ、教会の教えを拒み、頑なに誤った道を歩み続けてはいないでしょうか?
そのために、ついには教会を離れるという愚かで悲しい決断をしてしまってはいないか、自分自身を顧みる必要があります。
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきですが、イエス様というぶどう酒の味を失ってはなりません。

 私たちは新しい教皇に向かって「Habemus Papam!(私たちは教皇を得た!)」と声を上げますが、常にイエス様が共におられることを心に留め、「Habemus Jesum!(私たちはイエス様を得た、イエス様と共にある!)」という言葉を心に刻んで生きていきましょう。