2024年12月
ゆるしの秘跡 2
ダニエル 李 昇倫 神父
多くの信者はルカ福音書16章の「不正な管理人のたとえ」の話を理解できないと思います。
聖書に出てくる家来は、主人の財産を「浪費」して主人に呼ばれ、職を奪われることになります。
彼は土を掘る力もなく、物乞いするのも恥ずかしいので知恵をしぼります。
それは、主人に借金をした人たちを呼び、証書の金額を勝手に直させ、彼らの借金を少なくすることでした。
こうすると、その家来は主人から追い出されても、人々は自分を受け入れられると「自分のために」利口な行動をします。
ですが、このことを知った主人は、その利口な家来を「褒め」ます。
まさにこの部分が信者たちに理解できないところです。
自分のために、主人の財産を重ねて不正に使った人のことを主人がその行動を褒めるからです。
しかし、恵み深い主人にとっては、不正な管理人の不正よりも、彼の不正な行動によって貧しい人が救済を受けられたことに注意を向けます。
それで家来を「褒める」のです。
ここで私たちが注目すべきことは、主人が家来を「褒める」ことは事実ですが、その家来が犯した行動を「許す」ことではありません。
善行に対して「褒める」、悪行に対しては「許し」が必要です。
私たちがこの不正な管理人のたとえを理解できないのは、この「褒める」という言葉を「許す」という言葉と同じように考えるからです。
褒められたから許された!
家来が主人の財産で困っている人たちの荷を軽くしてあげたのは、助けられた立場としては善行なので「褒める」のですが、家来が主人の財産で勝手なことをしたことについては「許し」が必要なのです。
主人は家来を「褒めた」ものの、「許し」はしていません。
ということは、家来の罪はそのまま残っているのです。
「許し」を通して主人が自分を受け入れない限り、彼は再び主人の家来に戻ることはできません。
私たちの信仰も同じです。
私たちがいくら善行をして褒められたとしても、私たちの罪がなくなるわけではありません。
私たちの罪は「秘跡」を通してなくなります。
それは教会の中で「ゆるしの秘跡」を通して行われます。
つまり、いくら善行を積んでも、自分の罪をそのまま持って天国に入ることはできません。
クリスマスを控えた今、最もきれいな赤ん坊の姿でいらっしゃるイエス様をお迎えするために、私の心の「まぐさおけ」についた罪の垢を告解し、秘跡を通して洗い流せる時間を必ず持つようにしましょう。