2018年3月
罪を見極める方法
グエン・シン・サック神父
罪があるかないかを見極めることは、
ゆるしの秘跡を受けるために必要です。
現在の教会はどこでも悲しい状況にあります。
昔のように、毎週末に告解をする人はほとんどいません。
おそらく、人々はもはや罪と罪の危険を正しく認識していないからでしょう。
したがって、人間の弱さによって犯された罪の赦しを求め、父なる神に近づくためにゆるしの秘跡によって霊的生活の恵みをいただくことが必要であるとは思わないのです。
神はすべての人を愛していますが、すべての罪を憎むのです。
なぜなら、罪は神の愛の性質に反するからです。
罪の現実
まず個人的、家庭的、社会的、国際的な生活の中で罪を特定する必要があります。
個人的な罪としては、嫉妬、他人の欠点を公に言いふらすこと、怒り、愛への背き、欲望、姦淫、盗み、物質的な物の崇拝、不道徳などがあります。
多くのカトリック信者が罪を犯しています。
しかし、それを自分で知っているのかどうかです。
神様の子どもとして信仰を持って生きることで、罪を避けることがとても大切です。
私たちは個人的、家庭的、社会的、世俗的な生活の中にあって、誰しも罪を否定することができません。
現実の罪を知り、認めなければなりません。
具体的に言うと、例えば毎年、アメリカでは胎児を中絶によって数万以上殺しています。
そのような行いはすべての命を滅ぼし、命の源である神様に対する恐ろしい犯罪です。
離婚は家族の幸福と結婚の目的を破壊しています。
神様は人類の創造において神様と共に協力するために、結婚生活を確立しました。
その目的は永遠に続くのです。
また、世界のあらゆるところで賭博や売春などの罪を犯しています。
特に貧しい国でそれは起きています。
これは非常に深刻な道徳的、倫理的なかたよりであり、すぐに改善することは不可能です。
また、個人の利益のため、自分の欲望を満たすため、女性と子どもたちが売春の犠牲になっています。
これらは非常に悲惨なことです。
もし自分には罪が無いと思うなら、ヨハネの言葉に耳を傾けましょう。
「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません」
(1ヨハネ 1:8)
罪を認めるためには〈神様が寛容で慈しみ深い方である〉ことを信じることが必要です。
悪魔が私たちのあらゆる行いの中で、神様に敵対するように誘惑することは少なくありません。
私たちがそのような環境の中で弱くなった時に犯した罪について、神様の赦しを願い続けることが必要です。
しかし、赦しをいただくためには自分の罪を認めることが必要です。
永遠の命に入れますように、罪を犯した私を赦し、また罪への誘惑から私を守り、真の救いの道を歩むことができますように、と願うのです。
「そのようにこれらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない」
(マタイ 18:14)
主イエスはゆるしの秘跡を弟子たちと教会に定めてくださいました。
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」
(マルコ 3:28-29)
ですから、罪を犯した者はゆるしの秘跡を受ける必要があります。
では、赦しをいただくために、どのようにゆるしの秘跡を受けたらよいでしょう。
まず、真に悔い改めて、神様と他人に犯した罪を認識できなければなりません。
この点について、教会の教義は次のように教えています。
「悔い改めは教会の最初の行為です。これは魂の痛みであり、将来罪を犯さないように決心するのです」
(カトリック教会のカテキズム 1451)
罪を認識して誠実に悔い改めた後、ゆるしの秘跡を受ける者は、罪を赦す権能を持つ司祭に告白します。
フランシスコ教皇は、2014年10月10日のミサの説教の中で、「魂を守る最良の方法は、毎日、良心の糾明をし、自分の心を振り返ることが大事です。神様と他人に対する正しくない行いを振り返ることが欠かせません」とおっしゃっています。
良心の糾明の方法
教皇様は、カトリック教徒は誰しも、ゆるしの秘跡を受ける必要があるとおっしゃっています。
私たちは自分の思い、考えによって、福音に反する生き方をしているのです。
犯した罪を赦していただかなければならないので、告白する必要があると述べました。
告白は誠実な回心です。
神様に信頼して、赦しを願い求めます。
悔い改めることにより、神様と共に神様の道を歩んでいくのです。