教会月報 巻頭言

2017年5月​​​​​​

タイ・山岳民族村訪問と巡礼の旅

ヨセフ 赤波江 豊 神父

 私は12年前からタイと関わっており、毎年神学生や大学生を連れてタイ北部の山岳民族の村を訪問しています。
タイ北部の山岳地帯には伝統的に山岳民族と呼ばれる人たちが住んでいて、主に農耕に従事しています。
カレン族、アカ族、モン族、ラフー族など10以上の部族があり、それぞれ言語も違います。
実はこれらの山岳民族の中にはカトリック信者が多く、村全体がカトリックという所もたくさんあります。
今年は2月27日から3月9日まで北部のオムコイ市から車で2時間ほど行ったカレン族のナキヤン村を訪問しました。
この村は戸数50戸。
村には教会があり、カレン人の司祭がいます。
参加者は10名で、夙川教会からは2名の信徒と大学生が参加しました。
日本語はもちろんのこと、英語も通じない村で手作りの簡単なカレン語ガイドブックだけをたよりに悪戦苦闘の毎日でしたが、結局参加者全員が体験できたことは、言葉は分からなくてもコミュニケーションできるということでした。
特に子どもと遊ぶのに言葉は不要です。
日本にいる時はあまり子どもたちと遊ぶイメージのなかった青年たちが村で純粋に嬉しそうに子どもたちと遊んでいる姿は、輝きそのものでした。
そして村人と私たちとの最高の接点は同じ信仰を持っているということでした。
村には信徒自らの手で建てた美しい教会があり、そこで毎日同じミサに参加して共に祈り歌い、特にカトリック聖歌の「あめのきさき」をカレン語と日本語で歌った感動は今でも心に残っています。
私たちにとってこのような村の訪問はまさに巡礼でした。
一見何の変哲もない山の中の村、でもそこに神と神を信じる人たちがいるのですから。
村の広い棚田の中にたたずんで青い空、緑の山並みを見つめた時には同じ光景でも日本では感じられないもの、即ち時空を超えて悠久の歴史の中にいる自分、即ち大きな神のみ手のなかにいる自分を実感しました。
ナキヤン村の人をはじめ、山岳民族の人たちは非常に控えめで穏やかで親切です。
生活は日本と比較すれば非常に質素ですが、彼らは自分たちが決して貧しいとは思っていません。
衣食住充分満ち足りていると思っています。
実際金持ちではありませんが、豊かに暮らしています。
だから皆穏やかなのでしょうか。
参加者全員一人ずつ村の家庭に8日間滞在し、村人の普段の生活と全く同じ生活を体験しましたが、全員感じたことは「何もなくても充分幸せだ」の一言でした。
「便利だが人間が希薄な社会」と「自然のなかで不便だが人間が豊かな社会」のどちらが幸せでしょうか。
これは一言では答えられない、またどちらかを簡単に切り捨ててはいけない質問ですが、今回の参加者特に若い青年たちがこれから生涯問い続けなければならない課題「幸せとは何か」にチャレンジした体験になったことでしょう。