教会月報 巻頭言

2016年9月​​​​​​

キリスト教一致と幼きイエズスの聖テレジア

コーナン・ミシェル神父

 先日、プロテスタントの信者の祈りに誘われてともに祈る喜びを味わいました。
フランシスコ教皇様が、第2バチカン公会議が目指す教会一致のために、活発に行動されていることは、ニュースでご存じでしょう?
バチカンにカトリックでない聖職者が訪れたり、また、教皇様が、東方教会を訪れて式にもお出になったりしています。
カトリック、東方教会、プロテスタント、同じ主イエズスへの信仰を持つ者として、お互いに尊重し合って、一緒に祈ることは、今の時代、特に必要になってきました。

 あるプロテスタントの友人が、夙川教会に入ってきて、不思議な印象を受けたそうです。
古い祭壇の頭に小さな十字架、そして金の十字架が置かれていて、その奥のアルコーブ(壁面に作られた窪んだ空間で、彫刻など美術品を置くのに用いる)にまた、十字架。
何か不自然な印象を受けるのはどういうことか?と。

 それは、こういう事情からでした。
第2バチカン公会議後、古い祭壇を使ってのミサではなく、信者の方に向かって呼びかける今の祭壇が設けられ、プロテスタントが〈聖人〉に対する崇敬を理解しにくいことを考慮して、禁令ではなかったものの、中央に聖人を配置することを避ける傾向があり、夙川教会でも、聖テレジアのご像が降ろされたそうです。
ですから、時代の流れとともに、もともとのあるべき形ではなくなっていったのです。

 このような配慮が本当の一致を生むでしょうか?
私は、そのようなことから一致は生まれないと思っています。
1967年、私が、夙川教会に赴任した時、聖テレジアのご像が、アルコーブにあるのを見て、とても誇らしく感じました。
リジューのカルメル会にたびたび祈りに行き、聖テレジアの福音宣教への熱意を心に刻んでいたからです。
今、プロテスタントの信者が聖テレジアのご像をアルコーブに見ても、嫌悪感を持つ人はいないのではないでしょうか?
聖テレジアを知っているかもしれません。
また、聖人の優れた心を紹介できるかもしれません。
保護の聖人とか、目に見えない守護の天使とか、カトリックの信仰を紹介できるかもしれません。
ですから、安全性を厳しく確認してからですが、聖テレジアのご像を元のアルコーブに戻すことを検討してみては、とあえて私は提案してみたいと思います。

 今年、大先輩ブスケ神父様の生誕地や聖テレジアの修道院への巡礼が計画されているそうです。
聖テレジアのご像がアルコーブに戻ってきて私たちが祈りを捧げる時、ブスケ神父様が、彼女の霊性に感化され、夙川教会を建てる折に捧げた祈りと犠牲、描いていた教会のもともとの姿、そして時代の波に呑み込まれ殉教者になっていったことに、私たち自身がより近づいてゆけるのではないでしょうか?

 幼きイエズスの聖テレジア、私たちのためにお祈りください。

聖堂正面のアルコーブにおかれたテレジア像
撮影:1979 年以前
提供:記録保存班