教会月報 巻頭言

2015年1月​​​​​​

羊飼いと羊

主任司祭 梅原 彰

 新年明けましておめでとうございます。
今年は未(羊)年です。
干支の中でも最も優しい、愛らしい親しみを感じる動物です。
とは言っても私たち都会に住んでいる者には、阪神間では六甲山牧場に行かないと見かけられません。
しかし、私たちキリスト者にとっては縁の深い動物です。

 旧約聖書にも新約聖書にも羊の話はよく登場します。
「羊飼いと羊」についての話は、基本的に神と私たちとの関係を表しています。
創世記にはアダムとエバが楽園を追い出された後、長男カインは羊を飼っていました。
旧約聖書では羊飼いである神が羊である選民イスラエルをどれほど愛し、多くの恵みをくださったかが述べられています。
「わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。(…)わたしはそれを満たそう」(詩編81)。
羊飼いは羊をよく知っており、一頭一頭の羊を見分け、それぞれ名前をつけ、羊の先頭に立って羊を牧草地に導きました。
アブラハムも羊飼いでした。
彼の甥のロトの羊飼いが牧草をめぐって争う話が出ています。
アブラハムは多くの家畜を持つ資産家でした。
「羊飼いと羊」のイメージによって神と私たちとの関係が表されています。
ダビデ王、モーセや預言者たちが羊飼いとして、イスラエル人を導いています。
イスラエル人は羊を生贄として神に捧げています。
供え物の「子羊の犠牲」は神の子羊であるキリストの贖いの象徴です。

 キリストは自分が羊飼いであり、私たち人間は羊であると教えられました。
ヨハネ10章で、羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す、と述べられています。
羊たちは羊飼いの声を覚え、信頼し、よその雇われた羊飼いにはついて行くことはありません。
雇われた羊飼いは狼が来ると羊を置き去りにして逃げるのです。
善い羊飼いであるキリストは命をかけて私たちを守り、導いてくださいます。
キリストは私たち一人ひとりの名前も存在も必要な物も全部知ってくださっています。
ルカ15章には有名な百匹の羊の話があります。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。
この見失った羊とは元々一つの群れの中にいた羊です。
現代の企業の功利主義的な考えなら、1頭を諦め、99頭を守ることに精を出すでしょう。
しかし、キリストの思いは全く正反対です。
見失った一頭を命がけで捜されるのです。
この喩えは、罪人の改心を求める神の思いです。
悔い改める必要のない99頭の羊より、たった1頭の悔い改める人が与えられることのほうが大きな喜びだと言われているのです。
この見失った羊の喩え話の後、失くした一枚の銀貨の喩え話があり、その後に放蕩息子の話があります。
家出をした弟が放蕩三昧な生活をし、無一文になった挙句、やっと悔い改めてお父さんの家に帰って来るのです。
本来自分がいるべきは、父と共にいるところであることに気づくのです。
ここに罪から立ち返り、悔い改めがあります。
自分の父の家(神の命)に戻るのです。これが神の救いです。

 今年も優しい羊飼いであるキリストに導かれて、何が起ころうともすべてをキリストに委ねて、夙川教会の全信徒が一体となって力強く歩んでまいりましょう。