教会月報 巻頭言

2014年11月​​​​​​

十一月、恩に着るとき

助任司祭 グエン・クォク・トゥアン

 毎年11月に入って、朝夕の涼しさを実感し、木枯らしが吹き始めるのを見ると、晩秋の日々が日本列島を訪れていることがわかります。
天気は徐々に寒く、昼が短くなる代わりに夜がだんだん長くなります。
晩秋の雰囲気は私たちの心を少し落ち着かせてくれるような気がします。

 カトリック教会では、特に11月は先に世を去った人々のことを思い起こし、また彼らのために祈ります。
と同時に、人間である私たちは自分自身の儚さや「死」を黙想するように招かれています。
実にカトリック教会では、死者のための祈りはただ年に一ヶ月だけではありません。
毎回、そして全世界のどこかでごミサが捧げられる度に、亡くなったすべての人は神のみ手に委ねられます。

 ところで、死者を思い起こすことは教会にとって何を意味するでしょうか。

  1. 「恩を忘れないため、死者のことを偲ぶ」
     私たちに先に亡くなった人々がいなかったら、もしくは祖先らの働きがなかったとすれば、今日の世界はどうなったかを想像することができるでしょうか。
    父母がいなければ、当然私たち自身もいないはずです。
    同じように、先祖たちが存在しなかったら、この国もあるはずがないのです。
    物質的な世界はそうですが、精神的な財産、特に私たちが持っている信仰も、先祖たちが命をかけて守ってくれたものです。
    言い換えてみれば、先祖たちが私たちの人生を生み、育ててくれたのです。
    そのため、感謝のために彼らのことを想い、祈るのは、人間にとっての筋道なのだと思います。
  1. 「人間の儚さを知るため、死者を偲ぶ」
     もし死者が私たちの人生の一部であれば、「死」そのものも一人ひとりの人生につながっているのです。
    人間である限り、遅かれ早かれ「死」を避けることはできません。
    年を重ねれば重ねるほど「死」を身近に感じます。
    生きている自分の中で「死」ということが常に起こっているのです。
    古い細胞が死に、新しい細胞が生まれるとか、髪の毛もだんだんと落ちていくとか。
    時間が経つにつれて、目も、歯も、膝も、腰も、より弱くなります。
    そして、最後に息も私たちから離れていきます。
    数えきれないほどの賢者、英雄も姿が消えていきました。
    そのため、死者を偲ぶとき、人間の儚さを学ぶことになります。
  1. 「死に方を知るため、死者を偲ぶ」
     聖書はゴルゴタの丘の上で、三人の死について描いています。
    イエス・キリストと二人の罪人です。
    見た目には、三人の死は全く同じです。
    しかし、死に至るまで回心しようとしなかった罪人の一人はゆるされないままでした。
    彼は生き方を知らなかったため、死に方も知りませんでした。
    もう一人の罪人は人生の最後に自分の弱さを認め、神に人生のすべてを委ねることができ、平安のうちに死を迎えました。
    そして真ん中に十字架につけられたイエスの死は、ご自分のためではなく、父なる神のみ心にかなう「いけにえ」として、全人類のための救いをもたらしてくださったのです。
    三人の死のうち、救いの源となるのはイエス・キリストの死だけです。
    イエスは人生のすべてを父なる神に委ね、人類の救いのためにご自身を捧げてくださったのです。
  1. 「生き方を知るため、死者を偲ぶ」
     イエスは神のみ旨にかなうものとして、死を身に受けました。
    そのため、父から栄光を受けました。
    イエスは死をもって永遠の命に入られたのです。
    そして私たちと世の終わりまで共にいてくださるのです。
     諸聖人たちも神と人々のために生き、死にました。
    そして、永遠の命に入った諸聖人たちが日夜、神の前でこの世に生きる私たちのためにとりなしてくださいます。
    聖ドミニコが臨終のとき、悲しみながら泣く兄弟たちに次のように言いました。
    「兄弟たちよ、嘆き悲しまないでください。天の国に入ったら、今よりあなたたちのために働きます」
    幼き聖テレジアも「天の国で私はバラの雨を降らせます」と約束してくださいました。
    聖人たちは神と兄弟姉妹のために生き、そして死にました。
    聖人たちは死を超えて、神のため、兄弟のために生き続けています。
    死に方を知ったため、聖人たちは永遠に生きています。

 死者の月にあたって私たちは、先祖たちのことを偲びながら、彼らのために祈り、彼らの生き方を学び、彼らの働きに感謝しましょう。
そうすることによって、自分もどのように生きればよいかを考える機会となります。
死が終わりではなく、慈しみ深い神のふところに帰るという確信を意識しながら、神のため、また兄弟のために生きることができますように。