2014年4月
ペトロの涙
主任司祭 梅原 彰
「わたしは、そんな人は知らない」とイエスを否定したペトロの背信は、ペトロの心を暗くし、イエスを悲しませました。
イエスと3年間寝食を共にし、イエスの奇跡を目撃し、その偉大な力に感嘆したこともしばしばありました。
それにもかかわらず、「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」と、そばの人が不審に思い言ったとき、ペトロはまさに呪い且つ誓って、イエスとの関係を否定したのです。
そして、罪に罪を重ね、深みに入っていくのです。
ペトロは自分の力を過信し、主により頼むことは、彼にとって二次的なことでした。
ペトロはなぜイエスを否んだのでしょうか。
それは人間的な弱さよりも大胆な誓いを心ならずも、言い切ってしまったところにあります。
ペトロがイエスから「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを否むだろう」と予言されたとき、自信たっぷりの決意や情熱にかられた態度を示すよりも、ただ一言、「主よ、わたしを見捨てないでください」と謙遜に願っていたなら、彼はイエスを否まなくて済んだのではないでしょうか。
この出来事は人間が誰も自分を誇ることのないようにとの戒めであります。
ペトロは「わたしはあなたと共に牢獄にも、死にも行く覚悟です」と断言しました。
それが失敗の原因だったのではなかったでしょうか。
自分の力を過信したペトロは主の御助けに寄りすがることを忘れたのです。
「誘惑に陥らないように目覚めて祈りなさい」との言葉さえおぼろげであったのです。
イエスがペトロを見つめられたとき、ペトロは激しく泣いたのです。
イエスの恵みが、彼に涙と痛悔を起こさせたのです。
ペトロは言葉でゆるしを願いませんでした。
しかし、主の前にふさわしい態度を示しました。
アンブロジオ司教は「ペトロは激しく泣いた。罪を涙で消すために彼は泣いた」と言っています。
私たちも今、四旬節を過ごしています。
ペトロと同じように痛悔の涙を流したいものです。