教会月報 巻頭言

2011年12月​​​​​​

「待つ」ことの意味

マルセリーノ 春名 昌哉 神父

 私たちは今、待降節を過ごしています。
人となられたキリストが私たちの元へ来てくださるのを待っています。

 ところで、待降節の「待つ」という言葉には二つの意味があります。
一つ目は最初に触れたようにキリストが私たちの元へ人となられて来られるのを「待つ」こと、そしてもう一つは終わりの時にキリストが再び私たちの元に来られるのを「待つ」ということです。

 この時期、私たちはふさわしい心で降誕節を迎える準備をします。
それは同時にキリストの再臨を待つための準備をすることでもあります。
キリストは地上に来られ、私たちが自らの罪を認め回心し、神の元へ立ち返ることを望まれました。
主はそのために私たちが何をなすべきかを示してくださいました。

 待降節に私たちがふさわしい心を準備して「待つ」ということは、このキリストが示してくださった道を再確認し、主に従う心を新たにすることです。
それは自己中心的に生きることではなく、神の望みを私たちがこの地上に実現していくための歩みです。
神が私たちに何を望んでおられるのか、そして私たちが何をなすべきなのかをみ言葉によって黙想し、識別する必要があります。
私たちの周りにおられる最も小さな人々の中にキリストを感じ、その人々のために自分ができることを精一杯行うよう心がけ、そしていつ主がこられてもいいように、私たちの心をふさわしく準備しながら待ちましょう。

 2011年も今月を残すだけとなりました。
今年一年、神から与えられた豊かな恵みに感謝しつつ、新しい年もまた神の恵みの内に生きることができるように祈りましょう。
そして私たちが神からいただいた恵みを自分だけのものにすることなく、多くの人々とその喜びを分かち合い、共に支え合い、助け合って生きる決意を新たにいたしましょう。