2011年9月
キリスト者の喜びのうちに生きる
コーナン・ミシェル神父
今年の夏もやっぱりいつもの通り暑かったですね。
蝉は喜んで神様の栄光を歌っていた。
学校の休みを楽しんで、子供たちはプールに行ったり、お友達と遊んだりして、宿題を忘れがちだったかもしれません。
お盆にあたり、遠くに住んでいる親戚や友人が故郷に戻って来て、出会いの喜びを味わう機会も与えられたことでしょう。
でも、それは喜びの時だけではなくて、難しいあるいは辛い時もあったかもしれません。
暑さのあまり、病院に通うことや人とぶつかってイライラすることによって、平安を失う経験もあったでしょう。
人間の気持ちは変わりやすいものです。
喜びとは何でしょう?
大変な試練を何回も迎えた聖パウロの言う“喜び”は環境とか時とかによって変わることではないみたい。
『いつも喜びを忘れずにいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、神が、キリスト・イエスによって、あなたがたに望まれることなのです。』
(テサロニケ一 5:16-18)。
8月15日の被昇天の祝いの日に、マリア様は、この聖パウロの言葉をどういう風に読んでいただろうかとふっと考えました。
イエス様がファリザイ派から攻撃された時、やっぱりご受難の間と十字架のもとに、マリア様は喜ぶことができただろうかと。
歓喜とパウロの言う福音的な喜びとは違うのです。
パウロが言っているのは、本能的な現れの喜びと違う、どんなときにも信じる気持ちから出る平和と落ち着きと希望につながれた心の安定した状態ではないでしょうか?
それはまずキリストのくださる恵みでしょう。
十字架のもと立っておられたマリア様はその恵みを受けられていたでしょう。
ラジオやTVのニュースの大部分には社会問題の暗いところが強調される傾向がありますが、世の中にあって、キリスト者として、しっかりとした本当の喜びを示す責任が教会にあると私は思います。
皆様にもそのような喜びを絶えず自分の環境の中に伝えてくださるように祈ります。
“新しい一日を、喜びと希望のうちに迎えましょう。一日は、神さまの親切な贈り物です”
(サールの聖フランシスコ)