2011年4月
エマオへ向かう二人の弟子
ペトロ 梅原 彰 神父
主イエズスのご復活おめでとうございます。
イエズスのご復活にまつわるエピソードは沢山あります。
イエズスは庭師として、ある時は漁師として現れますが、復活された日の午後には一人の旅人として、二人の弟子のそばに寄り添って旅をされます。
二人の弟子はその旅人が最初はイエズスと気付かず、見知らぬ旅人として共にエマオの町へ向かって行きます。
旅人は「あなたたちは何を話しているのですか」と尋ねられます。
ここ数日エルザレムではイエズスの十字架上で死の話しで、もちきりであるのにもかかわらず「エルザレムにおられたのに、あなただけが、このごろそこでおこったことをごぞんじないのですか?」と驚きを現わします。
かれらは十字架に躓き悲しみは顔にまで現れていました。
イエズスがどんなことですか?と尋ね「ナザレのイエズスのことです」と彼らのイエズス観を正直に告白します。
それをじっくり聞いてくださったあと「ああ預言者たちの云ったすべてのことを信ずるに鈍いおろかな者たちよ。キリストはこれらの苦難を受けて、栄光に入るはずではなかったか」と聖書全体にわたりご自分(メシア)について書かれていることを説明されたのです。
弟子たちは後で述懐しています。
「道で話しておられる時又聖書を説明してくださった時、私たちの心は燃えていたではないか」とイエズスはつねに私たちのかたわらを歩み、私たちと共におられます。
私たちがそのイエズスを感じ取ることができるように、聖霊は私たちを照らし、導いてくださいます。
私たちも聖書を読み味わうことによって復活されたイエズスと出会うことができるのです。
またイエズスがパンを取り賛美の祈りを唱え裂いて弟子たちにお渡しになったとき、二人の目は開け旅人がイエズスだとわかったのです。
しかしその姿は見えなくなりました。
このことは私たちもミサに与り、聖体をいただくことによりイエズスと出会うことができるのです。
イエズスがエマオの町をなおも先へ行こうとされる様子だったので「私たちと一しょにお泊りください。」としいてとめたのです。
かれらは見知らぬ旅人を泊め愛の業を行ったのです。
「あなたたちが私の兄弟であるこれらのもっとも小さな人々の一人にしてくれたことは、つまり私(神)にしてくれたことである」(マタイ25,40)
イエズスはほかの人々にされたような感覚的な出会いは与えられなかった。
けれども長い会話、叱責、聖書の説明という、精神的な出会いをもって、弟子たちの心を愛に燃えたたせたのです。
イエズスはこのように私たちにも三つの出会いを与えてくださるのです。
聖書を読むとき、心のうちにその光と愛とをもって、イエズスはひそかに私たちに語ってくださいます。
また聖体をいただくとき、そこには信仰におけるイエズスとの出会いがあるのです。
復活されたイエズスは感覚的な出会いではなく、信仰と愛による出会いをお望みなのです。
そして私たちは身近にいる隣人、特に苦しみ悲しんでいる人々に愛の手を差し出さねばならないのです。
そうした業に励むことによって復活されたイエズスに出会えるのです。