2010年3月
十字架の道行
梅原 彰 神父
今年も2月17日灰の水曜日より四旬節に入りました。 四旬節中は毎週金曜日午後3時より、十字架の道行の信心業が行われます。 イエズスの受難と死に至るまでの主な出来事を十四留で表し、各留ごとの受難の一場面を黙想し、ともに祈ります。 ゲツセマニの園から十字架上の死までのイエズスの受難と苦しみを、道行くように霊的にたどり、イエズスの人類に対する救いのみ業に対して、感謝と愛を捧げるのです。 当教会には聖堂内の壁間に美しい十字架の画像がかかっており、司祭(または先唱者)の先導のもとに進んでいきます。 この信心業に参加できない人は家庭で家族と一緒に、又個人で行うこともできます。 寝たきりの高齢者の方や病人もベットの上で、この信心業を行うこともできます。
パウロは「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるが、それはユダヤ人にとっては、躓きであり、異邦人にとっては愚かなものである。」(1コリント1章23)と云っている。 実際十字架は奴隷に対してだけ科せられ、残酷な死刑の道具でありました。 又それは恥辱を意味しました。 「しかし召された人々にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、そして神の知恵キリストである。神の愚かさは人間よりも賢く。神の弱さが人間よりも強いものだからせある。」(1コリント1章24~25) イエズスの十字架は神秘です。イエズスはしばしば自ら十字架にかけられることが父のみ旨であることを話されました。弟子たちも最初はイエズスの十字架に 躓き、その意味もわからず、受け入れませんでした。しかしイエズスが死に復活され、その栄光ある姿に接し、徐々にその意味を悟って行きます。聖霊降臨後やっとイエズスの十字架の意味を理解し、十字架の必要性を宣言する者になりました。十字架の 躓きが神の救いの計画の中で、どんなに重要な意味を持っているかを明らかに示すのです。私たちもこの四旬節に「私のあとに従いたいと望むものは、自分をすて自分の十字架をになって私に従いなさい」(マタイ16章24)という言葉を味わいましょう。