2007年11月
死といのち
11月に入って、カトリック教会は諸聖人-すなわちすべての聖人のいさおしをたたえる喜びをお祝いしますが、その翌日、死者の日をもって、帰天したすべての死者を記念するという習慣をもってご先祖さま・親戚・友人をはじめ、先に召された全世界とあらゆる時代の方々に救いの喜びが与えらえるように祈りを捧げます。
いずれは、私たちもそのこころあふれた祈りの対象になるでしょう。
死と言う言葉は科学的に明確な意味をもっているものの、キリスト者にとっては、お別れの悲しさと共に、大きな希望を与える過越の瞬間でもあるということを神さまに感謝すべきでしょう。
私は末期に入ったある患者が断言したことばを読み、驚きましたがやはり同時に考えさせられました。
"泣かないで、わたし死ぬのは寂しくないから"と信仰の恵みを受けたものにとって、死は科学的に遺体のありさまになっても、実は消えることのない永遠のいのちへ帰天して行くことなのです。
"死ぬのは怖くない"と言える人は珍しいでしょう。
そういうような人はちょっと変わっているか、あるいは深い信仰をもっている人か。
聖パウロが"私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできない"(ローマ 8:39)と強調するように聖人たちは神さまに結ばれ怖れずに喜んで死を迎え入れたのです。
神さまと人間に対する愛のうちに生き、地上での生涯を終えた人には、当然イエス様の十字架でのいけにえによって、帰天した時に永遠の幸せの希望が与えられるでしょう。
信仰の道から離れてしまった人にはどうなる?
まして、神さまの愛を知らなかった人々にはどうなる?
私たちはその神秘に確実に答えられないのですが、すべての死者がキリストの過越に結ばれていることを信じて、すべての死者の救いを祈り求めましょう。
11月の間に、死者を偲んで、追悼を捧げましょう。
ミシェル・コーナン 神父