2007年3月
十字架上のイエズスを仰ぎ見よう
今年は暖冬だったとはいえ、朝晩は厳しい寒さを肌で感じました。
自然界の木々も寒さに耐え、あたかも死んでしまったかのような落葉樹も、しつかりと大地に根をはり、三月にはやがて若芽をだします。
私たちは四旬節に入り、キリストの受難と死に思いを馳せ、自分の罪を悔い、犠牲と祈りと愛の業に励もうと努めています。
数年前上映され話題となった「パッション」という映画を見られた方もあると思います。
イエズスが激しく鞭打たれ、血だらけになったその姿は直視することができませんでした。
ユダヤ人の憎悪と侮辱を一身に受け、十字架を担ってカルワリオの山に登って行かれ、十字架にはりつけにされたのです。
3時間にわたって、言語に絶する苦しみを耐え忍び 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神よ、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか)」と叫び、息絶えられたのです。
イエズスのこの叫びは、十字架上での苦しみの激しさを表わしています。
イエズスは、その時父なる神が自分と共にいることさえ感じられなくなってしまわれるほど、痛みが最高頂だったのでしょう。
しかし、この苦しみのどん底にあった時も、「神よー」とではなく「わが神よー」と叫んだ。
イエズスは詩編22を唱えておられたのであるといわれます。
詩編22の中には 「あなたはわたしの神。」という句があります。
イエズスはその言葉を心に留めながらこの叫びを発したのではないかといわれます。
どれほど苦しくても、どれほど神が沈黙を守り、助け手をくださらなくても、イエズスにとっては神はあくまでも「私の神」なのです。
イエズスは最後まで神への信頼を持ち続けられたからこそ、「私の魂をみ手に委ねます。」と息を引きとられたのです。
私たち人類の罪を背負い、私たち人間の立場に立って、人間として父なる神にお詫びをするため、生命までなげうってくださったのです。
なんという謙虚さと人類に対する愛でしょうか。
私たちも色々な十字架を背負って生きています。
自分の十字架が一番重いと感じることがあります。
(実は他の人の十字架に比べると軽い。)
そうした時私たちは十字架のイエズスを仰ぎ見ましょう。
その時イエズスは言われるでしょう。
「私もあなたの救いのためにこんな十字架を担ったのですよ。私が担ってあげるから心配するな。」と。
カトリック病院の病室には十字架が掲げられているのはそのためです。
家庭にあっても目線に入る所に十字架を掲げ、毎日十字架のイエズスを仰ぎ見るようにしましょう。
梅原 彰 神父