《「勉強会」便り》13

  1. わたしたちの「勉強会」が発足したのは、昨年の10月28日であるから、この10月の会合で丁度一年が経過したことになる。10月度の集まりを含めて13回の「勉強会」が開かれたが、幸い、少ないときでも12〜3名の方々が集まり真剣にカトリック教会の教えを学んできた。これまでに一度でも出席した人の数は30名に達している。この「勉強会」は、もともと仲の良い教会内の友達同士の集まりでは決してなく、お互いの名前を知らず、親しく口をきいたこともなかった人たちの集まりといった性格の方がずっと強い。つまり、洗礼は受けたが(出席者には2名の未信者の方がおられるが)、もう一度、教会の教えを学び直そうという意志を持った人たちの集いである。このような会合が持てたことを、神様に心から感謝する次第である。
    この勉強会の一つの特色は、教会の会合としは男性の比率が高いことである。因みに10月度の出席者は男子7名、女子6名であった。
     

  2. 発足一周年に相応しく(?)、10月の勉強会は「福音」(設問79)で始まっている。設問の出し方が従来の「カトリック要理」では「神の国の福音とは何ですか」(1972年版)とか、「神の福音とは何ですか」(1960年版)となっているのに対して、「人類にとって福音とは何か」となっていることに注目すべきある。そして「イエス・キリストの宣言です」という簡潔な答えとなっているのが大きな特色である。
     

  3. 設問80の「人類をキリストとの一致(交わり)に導きたいという望み」の「一致(交わり)」は Communion の訳であるが、日本語に訳し辛い語である。
    ラテン語の communio からきた語で教会用語として「聖体拝領」「交わり」「一致」「(諸聖人の)通功」の意味に用いられている。
    設問81の「ご自分の存在証明(アイデンティティ)」の原訳は「アイデンティティ」のみであったが、会合終了後、メールで identity は「自己の存在証明」のことではないか、という指摘を頂き、両方を併記することにした。
    設問87に出てくる「造られずして生まれ、父と同一実体のもの」はニケア信条からの引用なのであるが、現在、日本で使用している口語のニケア・コンスタンチノープル信条では「造られることなく生まれ、父と一体」となっている。この部分の英文の信条は「begotten, not made, one in being with the Father」であるが、87では「be gotten, not made, consubstantial with the Father」とconsubstantialという用語を使っており、これはラテン語信条の consubtantialem Patri の直訳である。Consubstantial は三位一体に於ける父と子の関係を説明するための重要な概念となっている。

     

  4. 今回はH氏からの感想文を頂いた。

    《10月のある日の勉強会の感想である。
       女性6名、男性7名の信徒が夙川教会の信徒会館の3階のいつもの部屋に集まる。今日は、とても難解なイエスの受肉(incarnation)を扱った。極論すれば、神の子イエスは、聖霊の力により乙女マリアから人の子として地上に誕生したという秘義である。信ずるか信じないかで、キリスト教の信徒であるかそうでないかの分かれ目にすらなっていく。人の知性で納得し理解できるものならば、どんなにか楽なことであろうか! 今日の論点は、@福音、A神の子とB受肉であった。いつもなら1時間半の勉強会は、2時間を越す白熱を持って終了した。心なしか、全員の顔が放心した状態に見えていた。

       今の時代は、飽食で精神的支えを失った混沌の時代とも言える。その中で私達は、神に何をより頼み、神が何を為し得るかを期待するのであろうか? 神の沈黙かそれとも神の奇跡か? いつの間にか目先の小事ばかりに囚われている。イエスの説く福音は、気休めではない筈だ。現実の悪に対して「否」と宣言し、行動をもって変革する勇気を養うことも必要だと痛感する。受洗7年目の私にとって、大切なことは、カトリック教会の中に渦巻く異論・変論に戸惑うことなく、要理教育の充実により信仰を堅くすることである。           
       第2バチカン公会議以降、聖書に触れ、読み、親しむ機会は、聖書100週など多くあり、今も続いている。その反面、キリスト教の要理教育など根本教義に関することは、教会や信徒も避けてきた傾向すらあるのでは? 求道者や信徒と共に要理教育の勉強をと、心の中に渇望や情熱があったとしても、どう学び・教えればいいのか戸惑うばかりであった。全てを曖昧にしていく日本の風潮に対して、「否、そうじゃない」と一人一人の個人が守り抜く「心意気」を養い育てる必然性があるのではなかろうか! 宣教魂のある司祭と信仰宣言する信徒達の集まりが、きっと可能にしてくれると信じている。
       所属する教会が異なっても、こうして毎月第4日曜日に集まり、決して仲良しクラブでない雰囲気の下、要理教育を勉強する機会が得られたのは、誠に時期に適っている。   神に感謝!