例会報告

開催日:2017年10月-11月及び2018年6月-10月
報告対象:第2章 神の十戒の「第五のおきて」;設問466-469及び設問480-486
報告者:河野定男

【1】はじめに
 わたしが担当したのは「第五のおきて 殺してはならない」のうち、設問466-469と設問480-486であり、設問470から設問479は妊娠中絶、臓器移植の問題、安楽死、自殺など医学に関係する問題が中心になっているので、これらの箇所は医師であられる宮下弘道先生に担当して頂くことになった。
 わたしが担当した部分の主要テーマは正当防衛の問題と平和と戦争に関わる問題である。以下、これらの問題について、わたし自身が教えられた事柄を私見,感想を交えたコメントを各設問ごとに綴り、例会報告と致します。正当防衛の問題を中心とした設問466-469は2017年10・11月(11月例会は教会行事の関係で12月10に開催)の例会で、平和と戦争問題を中心とした設問480-486は2018年6・7・8・9・10月の5回の例会で検討された。

【2】正当防衛の問題に関して(設問466-469)
設問466は、人間のいのちを尊重しなくてはならないのは「人間のいのちは神聖だからである。いのちはその始めから神の創造のわざの結果である」から「自らを守るすべをもたない人間のいのちを直接的に破壊することは何人に許されない」と明確に説明している。
 誰でも人を殺してはいけないと知っているが、では、なぜ人を殺してはいけないかを正面から問われると、なかなか明快には答えられないのではないかと思う。「天地の創造主である神」を信じ、一人ひとりの人間は神から直接いのちを授けて頂いたことを信仰を通じて知っている者でない限り、人はなぜ殺してはならいかをハッキリとは答えられないのではないかと考える。
設問467は正当防衛に関する教えについてである。「カトリック教会のカテキズム」(以下、「カテキズム」と略)の2263項から2265項に詳しく正当防衛に関する教えが説明されている。この説明を読んで、わたしが教えられ、深く印象付けられた点が二つあった。
 一つは、正当防衛によって人を殺害してしまっても認められることは知っていたが「それが(正当防衛が)人を故意に殺害することを禁止するおきての例外としてではありません。」(2263項)と教えている点である。その理由として「自分自身に対する愛というものが、倫理の基本原理です。したがって、自分の生きる権利を他の人の攻撃から守るのは正しいことです。自分のいのちを守るために戦う者は、たとえ攻撃者をやむなく殺すことがあったとしても、殺人の罪科を負うことはありません。」(2264項)と解説されている。
 二つ目は、正当防衛は個人と社会に認められている(2263項)のであり、このことを念頭において、2265項を読むと「(個人および社会の)正当防衛は単に権利であるばかりではなく、他人の生命に責任を持つ者にとっては重大な義務となります。共通善を防衛するには、不正な侵犯者の有害行為を封じる必要があります。合法的な権威を持つ者には、その責任上、自分の責任下にある市民共同体を侵犯者から守るためには武力さえも行使する権利があります。」と記されており、これは大いに注目すべき点である。ここで「共通善を防衛するには」と書かれているが、共通善には三つの本質的要素があり(1906項)、それは、個人の尊重(1907項)、集団の社会的安寧と発展(1908項)、および平和と安全を図ること(1909項)である。「合法的な権威を持つ者」とは日本においては政府である。また、「市民共同体」とあるが、これも日本に於いては国家を指すと考えてよいと思う。そして、教皇ヨハネ2世は回勅「地上の平和」において「政府当局の本来の使命は、まず国民の共通善を達成することです」(同回勅ペトロ文庫版P59)と述べておられる。国家(政府)の存在理由は、国民の共通善を実現するためにあるということができる。
 このように考えると、2265項の後半は「国家は国民の共通善を達成するためにあるので、不正な侵犯者の有害行為を封じる必要がある。そして、その責任上、自分の責任下にある国民を侵犯者から守るためには武力さえも行使する権利があります。」と教えているのである。これは、わたしが今まで明快には認識していなかったことであり、たいへん重要な教えであると感じた点である。
設問468と設問469は、犯罪者に対して社会が科す刑罰と死刑制度に関する問題が扱われている。この問題は正当防衛の教えの延長上にあると考えられる。カテキズム2265項に「共通善を防衛するには不正な侵犯者の有害行為を封じる必要があります。」とあるように、犯罪者とは、まさに社会の正当な秩序を乱す「不正な侵犯者」であり、共通善を阻害する「有害行為」者のことである。
 教会の伝統的な教えは、合法的公権が犯罪者を罪の重さに相応した罰を、罪が非常に重い場合には死刑を含めて科する権利(と義務)があることを認めてきたのであるが(出エジプト記21章12節に「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」とある。)、今日では、国家は犯罪者を無害化することが可能になってきているので、死刑の絶対的な必要性はまったくないとは云わないまでも、ごくまれであるとして、死刑制度に否定的な立場を教会は鮮明にしている。死刑廃止の根拠は「国家は人間の生命と自由を保障しますが、それらの尊重は国家が与えるものではなく、人間の尊厳に起因するものですから、それを奪う必要性はないという考え方」(「カトリック教会の教え」P349)からである。
 カテキズム勉強会例会の出席メンバーも多くが死刑廃止に賛成の意見であったが、日本の法律には重罪に対して死刑以外には無期懲役刑(仮出所が可能)しかないことは問題であり、死刑を廃止するなら終身刑など仮出所ができない制度をつくるべきだという意見が大勢であった(注)。
(注) 当勉強会で設問468の死刑問題を討議したのは2017年10-11月のことであった。
その後、2018年8月にフランシスコ教皇がカテキズム2267項を訂正して「死刑は許容できません。それは人格の不可侵性と尊厳への攻撃だからです」と明記することを承認したとカトリック中央協議会HPは報じ、その後、12月13日開催の2018年度第2回臨時司教総会にて、「カトリック教会のカテキズム」の2267項を次のように改訂することを決定した。
「2267 合法的権威がしかるべき手続を経た後に死刑を科すことは、ある種の犯罪の重大性に応じた適切なこたえであり、極端ではあっても、共通善を守るために容認できる手段であると長い間考えられてきました。
 しかし今日、たとえ非常に重大な罪を犯した後であっても人格の尊厳は失われないという意識がますます高まっています。加えて、国家が科す刑事制裁の意義に関して、新たな理解が広まってきています。最後に、市民にしかるべき安全を保障すると同時に、犯罪者から回心の可能性を決定的に奪うことのない、より効果的な拘禁システムが整えられてきています。 
 したがって教会は、福音の光のもとに『死刑は容認できません。それは人格の不可侵性と尊厳への攻撃だからです」(注)と教え、また、全世界で死刑が廃止されるために決意をもって取り組みます。
(注)教皇フランシスコ「『カトリック教会のカテキズム』公布25周年の集い参加者への講話(2017年10月11日)」
【3】日本の教会は正当防衛のことを教えていない。
①日本の司教団は、ローマ聖座が全世界のための普遍的要理書としてヨハネ・パウロ2世が公布した「カトリック教会のカテキズム」(1992年、規範版1997年、邦訳は2002年7月)に準じて、新要理書「カトリック教会の教え」を2003年4月に公表した。
 同書は日本司教団公認の要理書であり、1936年の「公教要理」、1960年の「カトリック要理」、1972年の「カトリック要理改訂版」に続く4冊目の公認要理書である(同書「序」より)。この新要理書は前3冊の要理書がいずれも問答形式のポケット版で小型のものであったのに対し、B5版本文469頁に及ぶ大著であり、問答形式ではない。
②司教団公認の新要理書「カトリック教会の教え」には大著でありながら、正当防衛の教えに関する説明がまったくない。正当防衛という用語が使われているのは一箇所だけで、次の通りである。
 「教会も過去において正戦論を唱えていましたが、科学兵器や核戦争の危機を目前にして、教皇ヨハネ23世の回勅『パーチェム・イン・テリス』における提唱から、そのような論理はカトリックの平和論にふさわしくないとされています。つまり現代の戦争は正当防衛の範囲を超えて、無差別の破壊と殺戮、地球環境の破壊をもたらすからです。ただし、祖国防衛のために兵役に従事することは、必ずしも平和維持に反するとはいえません(『現代世界憲章』79参照)」。(下線は筆者)
③ローマ聖座が出した「カトリック教会のカテキズム」に準じて書かれた要理書は多数あるが、正当防衛の教えを省いているものは日本司教団の要理書以外にはないのではなかろうか。実に不思議なことである。
 ドミニコ会研究所編の「カトリックの教え」(ドン・ボスコ社刊)は「カテキズム」に基づく新書版198頁の小さな要理書であるが、「(問)336正当防衛は許されますか。(答)殺人の禁止は、不当な侵害者の攻撃を封じる権利を否定するものではありません。正当防衛は、他人のいのち、または共通善を防衛する責任のある者には重大な義務となります。」とあり、キッチリと正当防衛について教えている。
④わたしは、2018年9月の例会においてこの事実を参加された方々に報告しておいた。
【4】平和の問題と戦争の回避について(設問480-486)
設問480は「イエスの求めた平和とは?」を問うている。福音書にはイエスのことばとして、次のようなことが記されている。
マタイ5:9「平和を実現する人びとは、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」
マタイ5:22「しかし、私はあなた方に言う。兄弟に対して怒る者は皆裁きを受ける。・・・」
マタイ5:23-24「あなたが祭壇の上に供え物をささげようとするとき、もし兄弟があなたに何か恨みを抱いているのを思い出したならば、供え物を祭壇の前に置いておき、まず言って兄弟と和解し、それからもどって供え物をささげなさい。」
ヨハネ14;27「わたしは、あなたがたに平和を残し、わたしの平和を与える」
また、復活後のイエスの12使徒に言われた最初のことばは「あなたがた平和があるように」(ヨハネ20:19)であった。そして「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)とも教えた。また、イエスは旧約聖書の「同害復讐法」(「目には目を、歯に歯を」の思想)の考え方を排し、有名な「だれかがあなたの右の頬を打つなら左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)ということばを残したし、イエスがユダヤの大祭司の手下に逮捕されるとき、イエスの弟子の一人(ペトロ?)が剣で相手の耳を切り落としたとき、イエスは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言って、これを制した。
 このように見てくると、イエスの求める平和は、明らかに心の平和であった。そして残忍な怒りや憎悪が罪であることを明らかにすると共に、復讐なども禁じたのである。
 しかしながら、福音書には平和に関して次のようなことばもある。心の平和を説いたイエスの上記の福音書のことばとどのように調和するのか。このことについては7月の例会において議論したが、参加者全員が納得できるような結論には至らなかった。
マタイ10:34-35 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和でなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人はその父に、母に、嫁はしゅうとめに。」
設問481と482の「世界の平和」は英文テキストではそれぞれPeace in this world、Earthly peaceとなっているので、「地上の平和」あるいは「この世の平和」と理解する方が適切と思う。
 現代世界憲章78項は「平和の本質」という見出しのもとに「平和は単に戦争がないことでもなければ、敵対する力の均衡を保持することでもなく、独裁的な支配から生じるものでもない。平和を『正義が造り出すもの』(イザヤ32:17)と定義することは正しく、適切である。」と述べ、平和とは「つねにより完全な正義を求めて人間が実行に移さなければならない秩序の成果である」が、その「平和は永久的に獲得されたものではなく、たえず獲得されるべきものであり」、人間は罪に傷つけられ意志の弱いものであるから「平和獲得のためには、各自が激情をたえず抑えることと、正当な権力による警戒が必要である。」とあると説いている。
 平和は「正義が造り出す」と云うが、現実の人間の世界では「正義」とは何かをめぐって簡単には一致を見ないのが普通であるから、この世における平和は、なにかの条件が揃えば安定的に得られるようなものでは決してない。教会は人々が愛によって結ばれるかぎり、罪に打ち勝ち、暴力に打ち勝つことができるという希望を持ち続けるが、「人々は罪びとであるかぎり、戦争の危険にさらされており、それはキリストの再臨の時(=世の終わり)までかわることがないであろう」(現代世界憲章78)という現実を直視している。
 設問482では、地上に平和を実現するには「公正な富の分配と、個人の財産の保護」求められるとしているが、より詳しく説明しているのがカテキズム2317項だと思う。「経済的・社会的分野での不正や過度の不公平、人々や国家間に広がる羨望、不信、高慢などが、たえず平和を危険にさらし、戦争の原因となっているのです。これらの障害を克服するために行われる一つ一つのことが、平和の構築と戦争の回避とに貢献するのです。」
設問483の「どのような場合に、軍事力の行使は道徳的に許容されるか」という問いかけに、日本の少なからずの信徒はある種の戸惑いを感じると思う。なぜなら日本の憲法9条2項は軍事力保持を認めないと明記しているし、日本の司教団は一貫して憲法9条擁護の立場を信徒に示してきたからである。
わたしたちの例会でも、活発な意見の交換があり、設問483と484については8月と9月の2回の例会おいて、集中的に議論を行った。
 まず、カテキズム2308項が現代世界憲章79を引用して政府(国家)に正当防衛権があることを教えていることを念頭におくと、当然のことながら、国家は軍事力を持つことになる。教皇庁の正義と平和協議会が公表した「教会の社会教説綱要」の502項は「正当防衛の必要性は、国家が軍隊を持つことを正当化します。軍隊の活動は平和に奉仕するものでなければなりません。このような精神で国の安全と自由を守る人びとは真に平和に貢献することになります。」と述べている。
 その上で、設問483は、軍事力による正当防衛権の行使には、倫理的正当性の厳格な条件に従う必要があることを強調し、四つの条件を示し、そのすべてがそろっている場合には軍事力行使も道徳的に許容されると教えている(カテキズム2309項)。これは、別の言い方をすれば「正当な戦争(正戦)」(少なくとも概念として)はあるということである。また、2309項には(この四つの条件が)「いわゆろ『正当な戦争』論に列挙されている伝統的な要素です」と記されている。
 しかし日本の司教団公認の要理書「カトリック教会の教え」は「正当な戦争」論はカトリックの平和論にふさわしくないとして退けている。「教会も過去において正戦論を唱えていましたが、科学兵器や核戦争の危機を目前にして、教皇ヨハネ23世の回勅『パーチェム・イン・テリス』における提唱から、そのような論理はカトリックの平和論にふさわしくないとされています。」(「カトリック教会の教え」403頁)
設問484は、要するに戦争するとか、しないとかの判断は教会ではなく、当然のことながら為政者の権限であることを明確にしている。この設問には、戦後の日本の要理書が決して教えてこなかった重要な事柄が含まれている。すなわち、国民には国防の義務があるという点である。
カテキズム2240 項 「権威に対する服従ならびに共通善への共同責任には、納税、投票権の行使、ならびに国防という義務が伴ってきます」
2310項「このような場合、政治をつかさどる者には祖国防衛に必要な任務を国民に課す権利と義務とがあります。 職業軍人として祖国の防衛に従事する人々は、国民の安全と自由とを守るための奉仕者です。自分の任務を正しく果たすとき、共通善ならびに平和の維持に真に貢献するのです(75)。」
 ここで気付くことは、祖国の防衛にあたる軍人の役割を高く評価している点である。しかし、「カトリック教会の教え」は大きく異なっている。「・・つまり現代の戦争は正当防衛の範囲を超えて、無差別の破壊と殺戮、地球環境の破壊をもたらすからです。ただし、祖国防衛のために兵役に従事することは、必ずしも平和維持に反するとはいえません(『現代世界憲章』79参照)」。(同書403頁、下線は筆者)
設問485は戦争中も道徳律は守られなければならいと教えているが、これは宗教人なら当然のことと思う。現代世界憲章79にも「不幸にして戦争が起きたとき、その中で戦闘の当事者にはすべてのことが許されるわけではない」と記されている。
 また、非戦闘員、傷病兵、捕虜等は人道的精神をもって尊重して待遇し、国際法の普遍的原理に則って行動せよとも教える。そして、上官から戦争中に、このような守るべき道徳律に反する命令を受けた場合には盲目的に服従してはならないと戒めているが、実際に戦闘に参加している兵士にとって非常に難しいことではないかと思う。
設問486。第五のおきての締め括りは、戦争を回避するには何をすべきか、と言う設問で終わっている。答は,当然のことながら、やれるべきことは何でもやる、ということになる。
 解説文で、具体的に第一に取り上げているのが、武器の不正取引をしないこと、第二は経済的・社会的不正の是正、第三が民族・宗教による差別の解消、第四は人間の倫理的側面に触れて、嫉妬、不信、傲慢、復讐心などを避けることを挙げている。これら四つのうちで、日本で特に取り上げるべきは第二と、第四の側面ではないかと思う。現在の日本では、以前と比べて経済的・社会的格差が広がっているという現実にどう向き合うのか。そして、倫理的側面は人間本性に係わる普遍的問題で、とくに嫉妬心、傲慢は心の深層において、平和を損なう根源であるかもしれないと思う。
 戦争の回避の項の冒頭のカテキズム2307項には「・・神の慈しみによって、その状態(戦争に悩まされている状態)から解放して頂けるように、祈り、行動するように(教会は)熱心に勧めています」と記されている。そして、設問486の結びのことばが「無秩序を取り除くためになされるすべてのことが、平和の構築と戦争の回避を助けます」であり、戦争の回避には決定的なものはなく、それを「助ける」だけなのである。まさに「人々は罪人である限り、戦争の危険にさらされており、それはキリストの再臨の時まで(世の終わり)変わることがないであろう」という現代世界憲章78の指摘を思い出させる。

                                以上