例会報告(第41回)

開催日:2015年7月−2016年1月
報告対象:第3編第1部第1章357〜390
報告者:和田義次

  


  第1章「人間の人格の尊厳」は、人間の尊厳の根源についての設問358から始まる。「人間は神に似せて作られたものだから」という単純明快な答えが示されているが、日本の社会一般ではなかなかそのような理解がないために学校の道徳教育などにおいても「なぜ人間個々人はお互いを尊重しないといけないのか」についてもしっかり教えることができないでいるのではないかとの意見もあった。「人格」やその「尊厳」については哲学からのアプローチが一般的であるが、それだけでは限界があるということであろう。

  続いて「わたしたちの至福への召命」設問359〜362では我々の至福とは「真福八端」にあることが示されている。そこで改めて「真福八端」についてどのように思っているかを話し合った。「心の貧しさ」については、いろいろな意見が出たが、「謙虚さ」「神しか頼るものはない、お任せしますという心」といった理解が大勢であった。かって共産主義者は「貧しいひとは幸いである」という聖書の言葉を取り上げて「キリスト教は社会的弱者、貧困者へ欺瞞を説いている」と非難していたとの話も出た。やはり「貧しさ」という言葉の世間一般の理解とはかけ離れているのは問題で翻訳そのものを見直す時ではないだろうか。また個人としての気持ちの持ち方(精神的貧しさ)だけではなく、現実社会の物質的貧しさ(障がい者、貧困者、病者等の社会的弱者への援助、格差問題、難民問題等)についても関心をもつことが現代では求められているとの意見もあった。

  次に「人間の自由」設問363〜は「なぜ神は人間に自由(意志)を与えたのか?」 「人間が神から離れる、背く可能性をなぜ許容したのか?」に対する回答が提示される。「神は、人間に理性と意志とに根差した能力―自由を与えて、進んで究極の善である神に近づき、成長し成熟して、神と結ばれて完全で幸福な完成に至ることを望まれた」ということである。キリストは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理は、あなたたちを自由にする。(ヨハネ8‐31,32)」と教えている。一方、日本語の「自由」は、もともとは「我儘放蕩」の意味であったことや、仏教用語では「欲望からの解脱、なにものにもとらわれない、自らに由る」ということが紹介された。また、哲学者カントは「本能や自然法則に縛られず、自らの意思で理性に従って生きる、自律こそ自由の本質である」と言っているという。現実世界にはさまざまな制約があり、この制約、自由を妨げる障碍を打破することで自由を拡大してきたのが近代以降の歴史ともいえる。そして現在では「個人の自由」が声高に叫ばれ、「個人主義」、「自由主義」をわたしたちもなんとなく当然のこととしているが、もう一度原点に戻って「自由」の意味を考えてみる必要がありそうだ。

  設問364では「自由」には「責任」が伴うことが示される。「responsibility」は「respond」からきている。即ちもともと何かに応答するということ、状態をいうのであり、自由に選択したことに対しては結果が伴うということである。「ただし、行為の過失性や責任は‐‐‐‐減じられたり、時として問われなかったりします」という注釈がつくことは当然であろう。時代や生育環境などによって「善」とされるものが違っていることがあるとか、遺伝的資質・気質等によっても異なると理解していいのだろう。他人の行為の判断についても寛容さが大切であることを教えているのではないだろうか。

  設問367から「道徳性」とか「道徳的に」という言葉が出てくる。「道徳」という言葉を聞いてもいわゆる道徳教育を連想するくらいで今更カテキズムで言及されねばならないことがあるのかと感じてしまう。道徳とは倫理のことで宗教とは次元が違うと考えられるからだ。しかし、カテキズムを読むとやはり私たちのいわゆる「常識」とは違うことが書かれている。「行為が道徳的に善であるのは、その対象、目的、状況がそろってよいものであるときです。(中略)良い結果を生み出そうとして悪を行うことは許されません」とあります。「うそも方便」は許されないことなのだ。また「ウイーキリークス」もだめということになりそうだ。設問369は「どのような場合でも不法となる行為というものがありますか」とあり、その答えとして「それを選択することが常に不法となる行為があります(たとえば、冒涜、殺人、姦通)」となっている。良い結果を得るために「殺人」という不法行為(悪)を行うことは許されない。それでは「正当防衛による殺人」はどうか、正当な理由のある「戦争」はどうなのか、などの疑問はさらに勉強を進めていくことによって解決されると期待したい。

  「情念の道徳性」設問370〜は「情念」について語られる。しかし私たちには「情念」という言葉は馴染みの薄い言葉である。「passion」とは通常では情熱、激情であろう。また、「受苦」、「受難」の意味もあると教えられた。「情念の主たるものは、よいものに魅かれて生じる愛です」とあるのを素直に受けとめるのは、私たち日本人からは難しいように思える。

  「道徳的良心」 設問372〜では「良心」について示されている。「良心」という言葉は、「情念」とちがって聞きなれた言葉であり、カトリック信者でないひとにも普遍的に了解されている。そこにカテキズムは何を付け加えようとしているのか? 「時に応じて人に善を行い、悪を避けるように命じる理性の判断です。」 「人は良心に反して行動することを強いられたり、共通善の範囲内で、良心に従って行動することを妨げられてはなりません。とくに宗教の領域においてそういえます。」などの説明は、そう目新しいものとは言えない。しかし、設問374「正しく誠実な良心はどのように形成されますか」の答えに「神の言葉と教会の教えを身につけることによって形成されます。」とあり、「良心は誰もが生まれながらに持っている善悪の判断」という一般的な解釈と少し違うところが初めて出てくる。「良心」は培われなければならず、教育が不可欠であり、神の言葉を信仰と祈りによって吸収し実践することによって形成していくのだと説いている。人間は時として倫理的判断が不確かなものとなり、決定が困難な状況にたたされることがあるという現実を認識しているからであろう。そこで「良心が常に従わなければならない規範」として「善を引き出すために決して悪に同意してはならない」、「人にしてもらいたいと思うことは何でもあなた方も人にしなさい」、「愛はつねに隣人とその人の良心に対する尊敬を通してなされる」が示されている。日常的な生活を送っているうえだけであれば、これで十分と言えるかもしれないが、現代の政治問題、経済問題、環境問題等にたいしての判断はなかなか難しいのではないだろうか。現代世界憲章においては、「地上の国の生活の中に神のおきてを刻み込むことは、正しく形成された良心をもつ信徒の務めである。(中略)自分たちの司牧者がつねに何事にも精通し、すべての問題について、たとえそれが重大なことがらであったとしても、具体的解決策を持ち合わせているとか、それが彼らの使命であるというように考えてはならない。」(1455)として、信徒がそれぞれの専門的立場で「キリスト教の知恵に照らされて」判断を示していくこと、またその示された判断についても個々の信徒は自ら考え、「良心」に従うことを求めている。設問376では「良心」が誤った判断を下すこともあるとし、その「責任」について軽減されることがあると答えているが、私たちは「信仰」のなかに逃げ込んで思考停止するのではなく、できる限り諸問題に関心を持ち、自らが考えることはやらねばならぬことであろう。

  設問377からは「徳」について説かれている。「徳」には「人間的徳」と「対神徳」がある。「人間的徳」としては、「賢明、正義、勇気、節制」が枢要徳とされ、「対神徳」とは「信仰、希望、愛」であると教えている。報告者が昔習った「カトリック要理」(昭和38年初版発行)には、「対神徳」は「超自然徳」として記述がされているが、「人間的徳」についての記述は全くなかったので、なんとなしに違和感があるのは否めない。もともと、「知恵、勇気、節制、正義」はプラトンの「国家」にさかのぼる西洋的徳目であり、のちにカトリック神学に受け入れられたという。また「謙遜」という徳は、古代ギリシャ ローマでは知られておらず、キリスト教によって初めて挙げられたという(「心の貧しさ」を参照)が、枢要徳に入っていないのは不思議な気がする。私たちには儒教的「徳」すなわち「仁、義、礼、智、信」のほうが馴染み深いかもしれない。ちなみに「日本人の美徳と思われる点」についてのあるアンケートによれば「規則やマナーを守り、秩序を重んじる」、「几帳面」、「協調性に富む」、「勤勉」、「謙虚さ」などが挙げられていることが紹介され、出席者それぞれに自分が大切と思っている「徳」について話し合った。「対神徳」とは、設問384に「神ご自身を起源、動機、直接の目的とするものです。」とあるのはなかなか理解が難しい。前述の「要理」の説明、「超自然徳とは、神の超自然の御働きによって与えられる徳で、人はこれによって超自然の善を行います。これは成聖の恩恵を受けるときに与えられ、成聖の恩恵の増加につれて強められます」が理解を助けてくれるかもしれない。「愛はすべてを完成させるきずなであり、ほかの諸徳の基礎であり、それらを生かし、鼓舞し、秩序づけます」(設問388)。「神を愛し、ひとを愛する」この実践こそが求められている。