例会報告(31回)
開催日:2012年9月23日
報告対象:257−260
報告者:水口 隆司

9月度 「信徒によるカテキズム勉強会」 報告レポート

 私は今、このレポートを書くにあたって「神の見えざる手」という計らいに、心を馳せています。今月度の勉強会のテーマは「洗礼」であり、まだ洗礼を受けていない私にとって、「洗礼とは何か」を再度考える機会を用意して下さったのだと思います。

私たちは
 No257 だれが洗礼を受けることができますか
 No259 洗礼志願者には何が求められますか
などについて学びました。

 小説を読むとき一番面白い読み方は、主人公になったつもりで読むことです。エッセイや紀行文でも、自分がそこに居るような気持ちになって読むことが、内容を味わう最良の方法だと思います。つまり書かれていることを自分の問題として、主体的に取り組むことが必要かつ最善の方法なのです。
 私は『カテキズム』のこの部分を読んで、私は神が洗礼について自分のこととして真剣に考えるように求めておられるのだと感じました。No257の答えは、「洗礼を受けることができるのは、まだ洗礼を受けていないすべての者です」とあります。即ち私もまた、洗礼を受けることができる一人なのです。洗礼は「神の招き」であると言われます。神は教会の外に居る総ての人を招いておられます。初期キリスト教会の時代から、教会は周囲に居る人々に向かって開かれていました。それゆえにユダヤ人のみならず、ローマ人やエジプト人などが、神を怖れる者と呼ばれ教会の周りに集まってきたのです。洗礼はそのような人々に与えられ、共に教会のメンバーになったのです。その伝統は今も続いており教会の門は広く開けられて、洗礼を受けていない人のために洗礼の喜びを準備して待っています。そしてその洗礼の喜びは洗礼を受ける人だけでなく、代父、代母をはじめとして教会共同体総ての人々にとっても喜びなのです。その喜びを教会は「見失った羊」のたとえ(ルカ15:1)や「放蕩息子」のたとえ(ルカ15:11)などで伝えています。
  洗礼は教会共同体における信徒としての生活の始まりであって、決してゴールではありません。そこで求められるのはこれから始まる信仰生活への決意であって、誰でもそこに立つことができます。求められるのは、今後の毎日の生活なのです。
 では洗礼を受けるには、具体的にどのようにすればよいのでしょうか。それがNo259の答えとして述べられています。「すべての洗礼志願者には、信仰宣言が求められます。信仰宣言は、大人の場合には、本人によって、幼児の場合には、両親か教会によって表明されます。さらに、代父母と教会共同体全体は、洗礼準備(求道期)について、また同じように、信仰と洗礼の恵みを開花させることについても責任の一端を担っています。」私の場合は成人洗礼ですので、一定の求道期(洗礼準備期間)が必要とされます。これは信仰とキリスト教的生活への手ほどきの時期とされ、そこで信仰の基礎が育まれます。神父様や代父母の導き、そして教会メンバーや家族の支えによって信仰生活に入り、歩みを確実なものとするように総ての人々は手を差し伸べるのです。志願者はそのような援助を受けながら、自分の心の歩みを確実なものとしてゆくのです。それは洗礼、堅信、聖体拝領と様々な段階を経ることによって、より一層堅固なものとなってゆきます。本要約版の原資料『カトリック教会のカテキズム』のNo1253には、「洗礼に必要な信仰は完全で成熟した信仰ではなく、成長してゆく初歩的信仰です」とあります。洗礼志願者は信仰宣言を口に出して告げることが求められているのです。

『天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、私たちの主
イエス・キリストを信じます。(以下略)』

 口に出して言い表す事が信仰の第一歩です。『ローマの信徒への手紙』(10:10)に「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」とあります。神を信じ、イエス・キリストを信じ、それを言い表す事が信仰生活そのものです。

 私は以前、信仰に対して「不合理ゆえに、われ信ず」と、信仰は理解を超えたものだと考えていました。信仰と理性との折り合いをつけれずにいたのです。しかし今私は、「信仰するために理解するのではなく、理解するために信仰する」という言葉を知りました。信仰に入るのに、理解は必ずしも必要ではないのです。信仰の拓いた道を後から理解が着いてゆくという事もあるのだと知りました。信仰に入るためには、理解とそれに基づく信念が必要だと思っていたのですが、それ以外の道もあると思うようになりました。本来信仰に至る道は広く開かれているので、余分な事は考えずに主の招きに素直に応えれば良いのです。でも私は、神が総ての人に開いてくれた信仰への広い道を、自分で狭くしているような気がします。それが信仰の躓きと言われるものかも知れません。
 でも道があれば、一歩一歩進むことにより、いつかは神の前に到達することができると思います。回り道をしているかもわかりませんが「千里の道も一歩から」とか、「すべてに道はローマに通ず」とか、先人の知恵を表す言葉を自分の糧として進んで行けば、いつかは必ず目的は適うと思います。それを楽しみに、神の温かいまなざしを感じながら一歩ずつでも歩み続けたいと思います。

 神の注がれる眼は、神を怖れる者に
 神の愛に希望を、置く者の上に

 神と、私を見守ってくれている総ての人に
 感謝を捧げて