例会報告(第20回)

開催日:2011年10月23日
報告対象:設問221〜223
報告者:和田義次

   今回の箇所は私にとってはかってないほど難解な箇所であった。「至聖なる三位一体のわざである典礼」としてまとめられている221〜223は僅かに3つの設問であるが、これを参照すべく揚げられているカテキズムの箇所は合計で35箇所にものぼる。これほどの中身が凝縮されているのだから、設問と答をさらりと読んだだけではなかなか心にストンと落ちてこないのは当たり前のことかもしれないと自分を慰め、例会終了後、もう一度カテキズムの参照箇所を読んでみた。それで例会時には気がつかなかったことや分からなかったことなども少しは理解できたように思う。以下にはそのようなことも含んでいることをご了解いただきたい。

   まず、この章の題の「教会の時における過越しの神秘」からして分からない。「教会の時における」とはどういうことなのか、英文を参照してみると「時」は「Age」とある。「教会という時代」と解したらいいのかもしれない。「教会という時代」とはキリスト以前の旧約の時代ではなく、キリストが復活し、弟子たちに聖霊をおくり、福音を宣べ伝えるように派遣をした、それを受け継いでいる教会の現在ということであろうか。
   221を読んでいくと、設問の「御父はどのような意味で典礼の源泉であり目的ですか」という文章にまず戸惑ってしまった。御父=源泉というのは分かるが、御父=目的ということが理解できない。英文を見ると目的は「Goal」となっているので「目標」と読み替えたほうが分かりやすいのではないか。典礼とは御父(に近づくこと)を目指して行う祭儀なのだと理解すればどうだろうか。
   また、「Blessing」という言葉が神からの「祝福」と神への「賛美」という双方向の意味を持つのだということが英語版を参照すると分かる。「創世記」にある「神はこれを見てよしとされた。」というのが御父の祝福である。そしてさらに御父は、「死んで復活された御子において」「祝福で満たし」て下さり、これにこたえて「教会は、礼拝と賛美と感謝をもって御父をたたえ」るのである。「Blessing」という同じ言葉で表される「祝福」と「賛美」は、対等と言ってはおかしいかもしれないが、御父と教会の親密さを表していると考えてもいいのではないだろうか。

   222では回答の内に「キリストご自身が、ご自分の恵みをすべての時代の全世界の信者に分け与えるために働いておられます」というところがある。この「分け与える」という言葉も英文を参照すると「communicate」という単語で表されている。「communicate」とはもともと「(他人と)共有する」ことを意味し、そこから「伝える」「知らせる」「共にする」「分かち合う」という意味になっている。「分け与える」といったなんとなく「上から目線」ではなく、「分かち合う」といった言葉のほうがふさわしいのではないだろうか。

   さて223では「聖霊は教会をキリストとの出会いに備え、信じる会衆にキリストを思い起こさせて示し、キリストの神秘を現在化し、実現します」とある。参照箇所1103には「アナムネシス(記念)」という言葉が出てくる。この言葉には我々が普通に考える「記念」とは違う言葉ということのようだ。単に「想いおこさせる」「思い出させる」というのではなく、過去に行われたことをそのまま現在化する、現存してるように想わせるあるいは信じるという特別な言葉なのだそうだ。また1105では「エピクレシス(呼び求める)」という言葉が「供え物がキリストのからだと血となり、それを拝領する信者が神への生きた供え物となるために、聖とする霊を遣わして下さるように願う」との意味であるとある。聖体拝領をするとき、私たちも本当にキリストのからだの現存を信じ、意識し、呼び求めていると言えるだろうか、惰性的になってはいないだろうか、反省しなければならないだろう。たしかに1098では「 集会はキリストとの出会いに自らを準備し、準備の出来た民とならねばなりません」とある。ただ、だからといって、自分の信仰の弱いまま、準備不足のまま聖体拝領をしたらこの神秘の恵みが受けられないかというとそうではないのではないかと思いたい。昔読んだグレアムグリーンの小説で飲んだくれでどうしようもない神父が捧げたミサのご聖体でもまさしくキリストの御からだとなり、受けた人に大いなる恵みをもたらしたというような箇所があったように思う。そうであれば、堅く信じることが出来ない私たちであっても十分な恵みを分かち与えて下さるのではないか。神は人間のええ加減さや情けなさをはるかにこえて人間を愛して下さっておられるはずだから。