例会報告(第17回)

開催日:2011年7月31日
報告対象:設問212-217
報告者:井野崎千代子
カテキズム勉強会 212−217
 

地獄とは神から永遠に離れた「状態」のことを言う、とある(212)。「状態」はよいとしても「永遠」とは厳しいなあ、と思う。神様が慈しみのかたであられるなら、なぜこんな厳しいことをなさるのだろう、と当然思う。

これに対して、神は「人間を自由で責任ある存在として造られたので、人間の決定を尊重」される、という(213)。その「自由で責任ある」人間が大罪の中に留まり、「その人自身が完全に自主的に、進んで神との交わりから自分を除外」している状態が死の瞬間まで続くなら、その人は「地獄」へ追いやられることになる(213)。

ではじわじわと、病気か何かで弱りつつ、死を意識し、自分の過去を反省し、神との強いきずなを求めて死を迎える人のほうが、突然、何の準備もなしに事故か何かで生命を断たれる人よりも有利なのかな、とつまらぬことを考えてしまう。

そんなことよりももっと重要なことは、「自由」で「責任」ある一人の人間という存在が、紛れもない私自身をも指している、ということだ。あまりにも多くの「制限」の中で息づいている私たちには、この「自由」という言葉がなかなか明確に捉えられない。その私の発言に、受洗も「自由」の表れでしょ、と勉強会仲間の先輩から返事があった。すると幼児洗礼は? この問いを投げかける時間はなかったが、幼児洗礼、少年時の堅信らも、成人のち拒否しようと思えばできる「自由」があるということなのであろうか。この点、プロテスタントは「自由意志」をよりはっきりと尊重するため、カトリックのような幼児洗礼を認めないと聞く。この点をもっとはっきり知りたい。

また、死後、神のみぞ知る(215)時期に、主イエスの再臨により最後の審判(公審判)があり、生者と死者に対して、「正しい者、正しくない者」の裁きが行なわれ、その後、復活した体は「霊魂が私審判において受けた報いに」あずかるという(214)。そうして「天国」にあるもの、「煉獄」----8月28日の梅原神父の講演では、殆どの人は煉獄行きでしょう、との慰め?のお言葉であったが----を経て神のもとにやってきたものすべてが一つに集められ、「神の国」が完成するという終末論が完結する(216)。

このように見ていくと、この世に平等に生命を受けて誕生してきたはずの人間は、最終的にはまさに「天国」と「地獄」という、これ以上の格差はないというくらいの天と地の開きができうることになる。なんという恐ろしいことだ。そしてそれを決めるのは「自由意志」であるというのだ。果たして私はどれくらい意識して自分の「自由」な「意志決定」をしてきたか、またしているか、冷や水を浴びせられたようなショックで考えてみたい。でもやっぱり、こう言いたい自分がある。「神様、永遠の責め苦なんてちょっとひどすぎるんじゃない?」