例会報告(第12回)

開催日:2011年2月27日
報告対象:設問192−195
報告者:水口 隆司

   今月度は、「カトリック教会のカテキズム 要約」の192番、193番の「奉献生活」と、194番、195番の「聖徒の交わり」をテーマに意見を交換しました。

   「奉献生活」に関しては、その意味するものが修道生活であるとの話があり、その内容について各々が自分の想いを述べました。「奉献生活」の内容を端的に表している貞潔ならびに清貧、従順の内容に関して、「すべての事柄が困難であることは理解しているが、中でも最も困難なものは何だろうか」という話題になり、「従順が最も困難なのではないだろうか」という結論に落ち着きました。しかし、そこで更に、何に対して、誰に対しての従順を言うのか、という事になり、「神に対しての従順」であるという事になったのですが、はたして「神に対する従順」とは、どの様なことを意味するのだろうか、という具合に会話はどんどん進展していきました。河野さんが準備してくださった資料の中に「奉献生活においてキリスト者は・・・すべてにまして愛すべき神に自分自身をゆだね、神の国への奉仕のための完全な愛を追求しながら…」という文章があるのを確認して各自の心に留めたのでした。

   更にはこの「奉献生活」の実践である修道生活、修道会にも話題が及び、最初に組織された修道会は6世紀中ごろのベネディクト会であると説明されました。それまで個人的に隠修士と呼ばれていた人々が修道生活を送っていましたが、後に公に認められて、団体として活動を始めたのが修道会の起源のようです.その後、13世紀にフランシスコ会やドミニコ会が誕生し、16世紀には宗教改革の運動に対してイエズス会が設立されて、教会に新しい風をもたらしました。19世紀になってさらに多くの修道会が誕生し、ジョバンニ神父様のザベリオ会もその一つであるという事を知りました。

   後半の「聖徒の交わり」というテーマに関しては、当日集まったメンバーは謙虚な人が多いらしく、「私はその交わりには入っていないような気がする」という趣旨の発言が相次ぎました。195番では「復活されたキリストの恵みによって結ばれた人々の交わり」とあり、キリスト者すべてを含めた交わりを述べているのですが、何故か「私は入っていない」と思っておられる方が多数いらっしゃったのです。195番の問答の中に、「世から去って自分を清めつつある(煉獄に居る)人々、神の栄光を享受している(天国に居る)人々とともに、我々は地上を巡礼しているメンバーとして聖徒の交わりの重要な一環をなしているとあるのですから、我々はもっと自分に自信を持って良いのではないでしょうか。洗礼を受けその後、神と結ばれた生活をしているのですから、もっと堂々としていてよいでしょう。神の救いに関しては、ヨーロッパのカトリック教国と言われる国々の人々は自信過剰のように見えるし、我々日本人は遠慮気味に声をあげているように見えます。過剰にならない程度にもう少し自信を持っても良いと思います。

   そのような意見を交換していた時に、ある方が、「聖徒の交わり」ではなく、「聖徒との交わり」と言って、一歩距離を置いた方が落ち着くといわれました。一字違いで大違いという言葉もありますが、ユーモアのある発言に全員が大笑いしました。

   最後に、先日の梅原神父様の講演「教会の外に救いはない???」に関して「神父様は大変思い切ったことを述べてくださった」、「神父様のお話を聞いて安心した」、「キリスト教徒でない人をも含めて、イエス・キリストはすべての人のために死んでくださったのだと思う」など様々な意見が表明されました。そして神父様のおっしゃった「無名のキリスト教徒、良心に従って生活した人々はイエス・キリストに結び付く」というお言葉について、結局これは「教会の外ではなく内なのではないか」という意見もあり各人が自由に自分の意見を発表して温かい雰囲気のうちに終了しました。

神に感謝