例会報告(第11回)

開催日:2011年1月23日
報告対象:設問189−191
報告者:五百旗頭 邦夫

今回はキリストの祭司職、預言職、王職に信徒はどのよう参画するかとの設問について学んだ。キリストご自身が最高の祭司、預言者、司牧者として世に来られたことは要理で学んだ通りで、我々は問題なく理解している。教会に祭職、教職、牧職として受け継がれたこれら3つの使命に我々信徒がいかにあずかるのかを、コンペンディウムは短く要約している。信徒の立場から三つの使命にあずかり・加わる義務のあることは一般論としては出席者から異議なく受容れられたと思う。しかし、各論として具体的にどう行動すべきかは実に悩ましいところ。信徒の務めであることは認めるが、周囲に気を使えば使うほど行動を起こせず悩んでしまう。参加者からは、より詳しいカテキズム対応個所の説明を読んで、いろいろな感想や意見が出た。いくつかを紹介すると、

  • 司祭のいないところで自ら父親に臨終洗礼を授けたが、自分でよかったのか、本当に良いことをしたのかとあとあと悩んだ。数年後、ある神父から洗礼は神からの恵みであって誰が授けるかは問題でないといわれてやっと安心した。

  • 「信徒使徒職は生活によるあかしだけでなく、…..信じない者にもキリストを告げ知らせる機会を求めるもの….」といわれても、職場では宗教には無関心ないし嫌いと言う人が圧倒的に多く、時間外に飲むときでも宗教の話を切り出すのは難しい。

  • 周りの人に自分がキリスト教徒であることを明かしていない、知られてもいない。明かしてどんな反応が返ってくるか不安。躓きになってはと思う。

  • 病気に悩む部下に上司として接したとき、企業の論理が本人に対する愛に優先した。

  • 聖体拝領は信徒奉仕者よりも司祭・修道者からいただく方が有難い気がする(これは夙川のことではない)、等々。

(以下私見) ひるがえって退職した今、自らの昔を振り返ってみると、勤め人であった頃はミサの間だけ教会モードで教会を出ると完全に世間モードに切り替っていた。職場で勤務時間中に宗教活動をすることは今も昔も許されないが、教会の教えをある程度会社業務に反映させることはできるはずだ。だが今日の仕事のどこをどうすればいいのかとなると正直答えは出てこない。基本的な原理・原則と日常業務の間には大きな距離があり、一つの原理から出発しても答えは個々人のおかれた状況によって違いうる。だが基本原理をしっかり把握しておればそれに明らかに反するケースは指摘できる。私には所詮その程度のことしかできない。一方、勤務時間外では活動は自由だが、キリスト教をのべ伝えることをしなかった。昼間の疲れを癒したい人は宗教の話は敬遠すると考えたから。一部キリスト教派や右翼・左翼グループの街宣活動は親近感よりも反感を生むことの方が多いように思う。しかし、それではどんな布教活動ができるかを真剣に考えるべきであった。

今日の会合で次のお知らせがあった。

  1. 和田幹男神父著 「死海文書 聖書誕生の謎」 が昨年末上梓された(ベスト新書313)。

    出版社は教会と関係のないKKベストセラーズで相当大量に印刷されたとのこと。早速、駅前の書店に注文し目を通した。これまで新聞、雑誌等で死海文書が見つかった程度のことしか知らなかった私にとって初めての解説書であった。幸い、専門的な学術書ではなく、一般読者向けを意図して書かれたもので読みやすい。約200ページは五部から成り、第1章ではユダヤ教とキリスト教の基礎知識を述べ、第2章では第2次世界大戦後から中東戦争に至る期間の死海西北部に位置するキルべト・クムラン遺跡における死海文書発見のドラマを追い、クムランの住人を最も神に近いとされるエッセネ派とする説を紹介している。第3章では11の洞窟から見つかった800以上の文書を概観、分類し、旧約聖書第1正典39書のうちエステル記を除くすべての断片が、また(ヘブライ語で書かれていないので正典でないと主張された)第2正典7書のうちシラ書とトビト書のヘブライ語文が含まれることを示す。聖書関連文書のほかクムラン教団関連文書(教団規則、歴史、祈り、典礼文など)も多く含まれているという。第4章では新約聖書との関係について述べ、第5章では死海文書を作成したクムラン教団の内実に迫り、同教団は聖書にも死海文書にも出てこないが最も厳格に立法を守り、荒れ野での共同生活を送って神に仕えたエッセネ派であったとする説が有力としている。  
    是非、一読をお勧めします。

  2. 講演会 「教会の外に救いなし」? (講師:梅原神父)
    2月13日(日) 13:30〜 会館301号室にて
    勉強会で設問168−171に関し提起された問題に応えて行われるものです。

以上