例会報告(第 八回)

開催日:2010年10月24日(日)
報告対象:
設問180 – 184* [ キリスト信者 ― 聖職位階、信徒、奉献生活 ]
報告者:
曽我邦子
 

   未成年から成年への境界線をようやく越えて大学生だった私が受洗したのは、まだバチカン第二公会議の結果の影響が一般信徒のレベルまで降りてきていない頃であった。戦後、欧米から来日した多くの宣教師たちによってもたらされたキリスト教の教え、教会内の雰囲気は西洋文化の色が濃く、日本社会、文化の中で育った者にとっては馴染めない部分も多くあった。と同時に、何か新しいもの、その頃には一般的に日本社会より進歩しているものと考えられていた面になんらかの憧れを感じていたことも確かである。しかし、当時の教会内には、聖職者(司祭の半数くらいは欧米人)と一般信徒との間には上下関係を含む厳然たる垣根があり、社会的にも未熟で新米信者の私にとっての信仰生活は、ひたすら「公教要理」を聖職者の解説のもとに読み、書かれていることを暗記し、その教えに従うというものであった。「共同体の中の個人」として、複数の要素から成り立っていながらも互いの自由な交流が静止している共同体の中、厳然と仕切られた信者という区分、しかも、ヒラルキーの底辺にあって、その上に君臨する聖職者のプリズムを通して神を見ていたような気がする。

   その後、第二公会議の影響が部分教会および一般信徒へも浸透し、世の初めからそれぞれの特性、特徴をもった個として神によって造られた一人一人が有機的に結びつき、交流し合う共同体としての教会の姿が現れてきた。さらに、インカルチュレーションの流れの中で、文化、社会的にも多様な要素を持った人間の集りであるという意識も生まれた。宣教師の熱意と忍耐によって世界各地にもたらされたキリスト教を受け入れ、また、キリストによって受け容れられた異教徒たちの土着の文化の中にも、キリストの受肉を見ようとする教会の動きもあった。したがって、そのような教会共同体の中で、それぞれに自立して、自律した信仰生活に軸足を置きながら、今共に生きる聖職者、他の信徒らと積極的に交わり、一致して神の国に近づくために歩むことが「共同体の中の個人」が生きる信仰生活であろうと現在の私は考えている。そのような交わりのなかで、互いにそれぞれを尊敬し、尊重する心と姿勢を保つためには、叙階の秘蹟によって神から聖職者に与えられている責任、責務、権能、および信徒の責任、役割を認識することが必要であろうと日ごろ思っていたが、今回の例会で取上げた設問180 – 184によって、それらの疑問を以下のようにある程度明らかにされたと感じる。

   まず、聖ペトロの後継者であり聖職位階の頂点にある教皇については、「教会一致の恒久的な目に見える根拠であり、基礎である。またキリストの代理者、司教団の頭、全教会の牧者であり、神の制定により、教会に対して十全で、最高、直接、普遍の権能を持っています」(設問182)と述べられている。
   一方、司教たちの権能については、「司教団も、教皇との交わりのうちに、教会に対して最高の十全な権能を行使します。教皇なしに行使することは決してありません」(設問183)とし、その責務については「教皇との交わりのなかで、キリストの権威を付与された者、使途伝来の信仰の真正な証人として、忠実に、また権威をもって福音を告げ知らせる努めを持っています」(設問184)と述べられている。さらに、教皇と司教団との関係については、「どの司教も自らの奉仕職を、司教団の一員として、教皇との交わりのうちに果たします。こうして、各司教は普遍教会に対する配慮の責任を教皇と分かち合います」(設問180)としている。
   すなわち、「キリストによって選ばれ、派遣された十二使徒の模範に倣い、教会聖職位階を構成する人々の一致は、すべてのキリスト信者の交わりに奉仕するためにあります」(設問180)とあるように、教皇と司教団がその責任の分かち合いを経て、互いに一致するところで、世界の信徒が共有できる統一された教会が保持され続けていることが読み取れる。教皇と司教団との人間同士の忍耐強い関わり合いの上で互いが合意するところに神の御旨が顕されるのである。近年、教会が抱える諸問題を教皇のトップダウンによる早期解決を求める信徒たちやマスコミの声があるが、それが安易で、世俗的な考えであることを改めて認識させられた。

   さらに、私たち信徒にとってより近い存在である司祭の奉仕職については、「司祭たちは自らの奉仕職を、部分教会の司祭団の中で、自分たちの司教とのうちに、彼の導きのもとで果たします」(設問180)と述べられている。この時点で、例会出席者の中から、それぞれの教区の司教や小教区の司祭によって、教会における活動も大きく異なっている事実が指摘されたが、「教会の奉仕職は、個人的な特徴をももっています。叙階の秘蹟の効力により、各自がキリストの前で責任を負っているからです。キリストは個人的なかかわりの中で招き、使命を授けてくださったのです」(設問181)と述べられていることから、一人一人が神によってそれぞれの特徴をもった個として造られた人間が、互いに自らを持ち寄り、交わり合うところに「神が在る」と解釈してよいのであろう。

   次に、信徒の責任については、「神の民は、超自然的な信仰の感覚を通して、教会の生きた教導職の指導のもとに、信仰を損なうことなく固く守ります」(設問184)と述べられているが、この中の「超自然的な信仰の感覚」こそは、信徒がそれぞれに日々の祈りと、聖職者や他の信徒との関わり合い、思い遣り、奉仕、愛の業を通してより鋭くなるように磨きあげていくものであろう。次回の勉強会で設問185 – 195 へと読み進めるなかで、「共同体の中の個人」として、自立して、自律した信徒として歩む道がより明確にされるのを期待している。


(* 報告者は設問184にも触れたが、前回の例会で取上げたのは設問183までであった。したがって次回の勉強会では設問184から始められる)