2010年8月26日

例会報告(第五回)

開催日:2010年7月25日
報告対象:設問171から設問172まで
報告者:井野崎千代子

7月度勉強会感想

「教会の外に救いはない」との主張は何を意味していますか(171)------この極めて排他的と思われる断言に対する返答には、キリスト教文化圏に生まれ育った人にも異教文化圏に生まれ育った人にもどちらにも配慮された説明が用意されている。だが、参照の『カトリック教会のカテキズム』846,847を更に読むと、「カトリック教会が神によってイエス キリストを通して必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなおその教会に入ること、あるいは教会の中に終わりまでとどまることを拒否するとすれば、このような人々は救われることはない」[教会憲章14より]が、「救われないというこの主張は、自分の過ちによらずにキリストやキリストの教会を知らない人々にはあてはまりません….誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動をもって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができます」[教会憲章16より]というくだりを読むと、かえって、まだ福音を知らない異教徒や未信者には寛容で、キリスト教文化圏出身者に対しては厳しい態度をとっているかのように感じるのは間違っているであろうか。

ここで言う「永遠の救い」を、現在の日本のカトリック信者はどれくらい真摯に心から求めているのであろう。むしろ、受けた生命をあるべき姿のものとするためにはどうすればよいか、本当のいのちとはどのようなものか、自分はどのように生きるべきなのかなどという、自らの生命への問いかけの向こうに、神としてのキリストの足跡に光と希望を感じる人が多いのではないのだろうか。「永遠の救い」とは、おそらく人間に対するこの上ない報酬なのであろうが、果たしてそれがどのような人に与えられるかという基準は人間の目から見たのでは、完全に理解することはこれまでの歴史を見ても不可能に思われ、もはや全力を尽くして手に入れようとする対象ではなくなっているように感じる。それよりもむしろ、まさに良心によって異教徒や未信者もそうするように、「真剣に神を探し求め、恵みの働きのもとで、良心の命令を通して知られる神のみ心を果たそうと努める」(171)、つまり、この世に生きている限り、そこにあるいのちをできる限り輝かせることに力を尽くそうとしているのが、現在の日本のカトリック信者の大半の姿勢なのではないだろうか。この点で、「良心」(conscience) についてもっと考察する機会を得たいと思う。

ところが、そのように自らの良心に基づいた努力によって神のみ心を果たそうとする「キリストの福音とキリストの教会を知らない」(171)人々も、「キリストと教会によって永遠の救いに達することができる」(171)とされているのは理解に苦しむ。教会によって認知されていない、無名の求道者が永遠の救いに達するためには、キリスト、神、以外に、「教会」が必要なのであろうか。そこにはある矛盾を含んでいるし、「永遠の救い」に関する権限をそこまで「教会」が持つことができるのであろうか。「教会」は「神」ではないと思っているのだが。