2010年3月15日

例会報告(第一回)

開催日:2010年2月28日
報告対象:設問156
報告者:河野定男

 

キリストのからだ

  1. 2月度はコンペンディウムの公式訳「カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)」(カトリック中央協議会)を使っての初めての会合であった。当日(2月28日)は教会の四旬節黙想会が行われたため、いつもより時間を短縮したこともあって、設問156の「教会はどのような意味でキリストのからだなのか」ということの検討だけで勉強会は終わった。

  2. 設問156で日本語版コンペンディウムはキリストのからだについて、「キリストを信じる人々は、キリストに―とくに聖体において―固く結ばれた者として、互いに愛のうちに一つに結ばれ、ただ一つのからである教会を形つくります」と説明している。この説明は、私にとって、端的にいえば、「ミサがあるから(ミサを捧げるから)教会はキリストのからだなのだ」と教えているように思えるのである。
       ここで、キーワードはアンダーラインを引いた“聖体において(in the Eucharist)”と“愛のうちに(in charity)”であると思う。エウカリスチア(eucharistia, eucharist)は日本語で普通“聖体”と訳されるのだが、この訳語ではその本来の意味をほとんど伝えていないと言われている。岩波キリスト教辞典では、この語は「感謝」の意で、2世紀ごろから、キリスト教徒が(パンとぶどう酒によって)行うキリストの死と復活を記念する儀礼さすようになり、カトリック教会では「ミサ」と呼ぶ、と解説している。つまりエウカリスチアはミサ全体、あるいはミサの感謝の祭儀をさす言葉なのである。
       一方、愛と訳されているところは、英語ではcharityであり、ラテン語のカリタス(caritas)にあたる。カリタスはギリシャ語のアガペーの訳語であって、このアガペーは新約聖書で初めて本格的に使用された語と言われている(つまり、キリスト教固有の用語)。キリストが十字架上の死をもって示して下さった救済的(あがないの)愛を意味する言葉であり、それは隣人愛となって現れると理解されている。
       このような意味のエウカリスチア(聖体)とカリタス(愛)を念頭に置いて、156の解説文を読むと、「キリストを信じる人々は、とくに感謝の祭儀で『キリストの御からだと御血にともにあずかるわたしたちが、聖霊によって一つに結ばれますように』(第2奉献文)と願う者として、お互いの隣人愛のうちに一つに結ばれ、ただ一つのからだである教会を形つくります」というふうに理解することができる。或いは、「お互いの隣人愛のうちに一つに結ばれ」のところを「キリストの十字架上の死という(あがないの)愛のわざにおいて、お互いが一つに結ばれ」と解釈することもできると思う。私にとっては後者の解釈の方がピッタリとくる。

  3. 2月の会合では、エウカリスチアに関連して聖変化のとき唱えられる「・・これをわたしの記念として行いなさい」の「記念(アネムネシス)として」ということばの意味は何かという問題を取り上げた。席上、聖書学者の和田幹男神父(箕面教会主任、聖トマス大学大学院名誉教授)かご自分のブログで公開されている「入門講座(要約)」に載っている解説を披露したところ、たいへん好評であったので、ここでも、少し長くなるが、紹介しておきたい(和田神父の解説では「記念」の代わりに「記憶」という訳語が用いられている)。

「『これをわたしの記憶のために行いなさい』はルカの記事では、一度言われますが、マルコとマタイの区術にはありません。これは実際にこの命令を実行しているところから取られたからでしょう。ここの『記憶』をいうギリシャ語アナムネシスは、われわれの時代的、文化的背景で理解してはなりません。それは単に過去の出来事を『思い出す』というような意味ではありません。それは当時のユダヤ教の祝祭の中で言われる特別な用語なのです。それは原初的な出来事を、言葉と仕草による象徴行為のもとに、この出来事の主人公が再現し、これに参加する者にあらためてその出来事を体験させるということです。最後の晩餐の場合、このときイエスさまが手で取られたパンとぶどう酒の仕草と、それぞれが何であるかを示された言葉が象徴行為であり、お命じになったとおり弟子が行うとき、イエスさま自身その死をもって行われた御業を再現なさるという意味です。これを行う弟子たちは、そのイエスさまの道具のようなもので、実際行われるのは、イエスさまご自身です。そこでは時代を越えて生きておられるイエスさまが前提されています。」

  1. 私たちの勉強会は、今、神の民、キリストのからである教会(設問153―158)のところを学んでいるのであるが、プロテスタントの方々は、神の民の一員であるのか、また、キリストのからだの肢体の一部なのか、という疑問がでてくる。神の民の一員と云えるかどうかについて、1月の例会で議論したが、設問154で「人は、キリストへの信仰と洗礼によって神の民の一員となります」と説明されているから、プロテスタントの教会で受けた洗礼が有効である限り、神の民の一員であると考える人と、そうでないと考える人とに分かれた。後で、当教会の梅原主任神父にお尋ねしたところ、プロテスタントの方も神の民の一員であると考えてよいとのことであった。他の教会の二人の神父様も同じ答であった。
    では、プロテスタントの方もキリストのからだの肢体の一部かの問題であるが、神の民=(イコール)キリストのからだと考えるなら、答はイエス(然り)であろう。しかし、エウカリスチアを中心にキリストのからだを考えるなら、カトリックとプロテスタントの考え方は大きく違うので(カトリックは聖変化によってパンとぶどう酒の形態のうちにキリストが実在しておられると信仰するのに対し、プロテスタントでは、一概には云えないが、それは単に象徴であるとしか考えない諸派がある)、私は、プロテスタントの方も(とくに全体を)キリストのからだの肢体の一部であるという考え方に全面的には賛成できない。皆様のお考えは如何であろうか。

以上