《「勉強会」便り》25

[2010年1月例会]

  1. 前回の《「勉強会」便り》24で、コンペンディウムの公式訳が発刊されるので、翻訳文のサイト掲載は設問152をもって終了することをお伝えした。「勉強会」便りは、翻訳文に付属するメモのような性格のものであるから、翻訳文掲載終了をもって、「勉強会」便りも終了する予定であったが、そうすれば、2010年1月度の例会の記録がサイト上に何も残らないことになるので、「勉強会」便り25を記すことにした。

  2. 1月度の例会で、今後、この勉強会では、毎月1回(原則として第4日曜)行われる例会の報告を参加者の有志が交代で、署名入りで書き、それを「例会報告」としてサイトに掲載することを決めた。その内容は、その月の勉強箇所についての論攷、意見、問題点、感想などさまざまな角度からの報告になるように努力したい。

  3. 1月の例会で勉強した箇所は設問153から155の「神の民」に関するところである。「神の民」が、教会の本質を言い表す概念として、重要視されるようになったのは、第二バチカン公会議以降のことである。公会議以前のカトリック要理書を調べて見ると「神の民」に関する説明はなされていないように思う。例えば、コンペンディウムの公布(2005年)の丁度100年前(1905年)に聖ピオ10世の命によって作成された「聖ピオ10世公教要理詳解」は、教会に関して詳しい解説があるが、「神の民」ついては何も触れていない。
    “神の民である教会”の説明は、第2バチカン公会議の教会憲章の第2章「神の民について」に依拠したものが多い、現に、設問153、154の解説文自体が、教会憲章9項の冒頭の「・・しかし神は人々を個別的に、全く相互の連絡なしに聖とされ救われることではなく、かれらを、神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することをよしとされた」とか、中頃の「この民は、身分としては、神の子らの品位と自由とを備え、かれらの心の中には、あたかも神殿におけるがごとく、聖霊が住んでおられる。この民は律法としては、キリストご自身がわれわれを愛されたように愛せよとの新しいおきてを有している(ヨハネ13:34)。さらに目的としては神の国を目指すものであり、・・、世の光、血の塩としてつかわされていう。」という文言から採られている。

  4. 設問155は、神の民自身が、キリストの有している祭司職、預言職、王職に直接に与っていると教えているが、これも公会議以降の新しい考え方と思われる。以前は、これら三つのキリストの役務に対応する聖職位階制度における祭司職、教導職、司牧職の指導に信徒は従順に従うことの重要性が強調されていたように思う。

以上
(2010年3月23日記)