夙川教会「信徒によるカテキズム勉強会」について

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  1. 「勉強会」発足の経緯について

       昨年6月の夙川教会の信徒評議会で、信仰教育委員会の活動が見直され、成人信徒の信仰教育も必要であることが確認され、6月末には梅原主任司祭の主宰による「典礼研究会」(月1回、第1土曜午後7時15分より)がスタートした。
       信仰教育委員会の実施したアンケート調査で、聖書の研究と要理(教理)の勉強を信徒が最も望んでいることが判った。これを受けて始まったのが、「信徒によるカテキズム勉強会」(07年10月発足、月1回第4日曜8時半のミサ後)とジョバンニ神父の指導による「旧約聖書を読む会」(07年11月発足、毎週火曜午後8時より)である。
       なぜ、“信徒による”勉強会にしたのかといえば、司祭不足が深刻になっている現状では、すでに受洗した成人信徒の教理勉強の面倒までを神父に頼ることは、事実上不可能になってくるのではないかという想いから、信徒も自発的に勉強すべきと考えたからである。

     

  2. 使用するテキスト:「コンペンディウム(要約);カトリック教会のカテキズム」

       テキストにこの本を選んだのは、先にヨハネ・パウロ2世によって公布された「カトリック教会のカテキズム」(日本語版は02年7月に発刊。839頁の大書)の教皇庁からの正式な要約版(コンペンディウムとは“要約”の意。05年6月ベネディクト16世により公布、08年6月現在日本語訳は出版されていない)であり、分量も本文175頁(英語版)で手頃で、カトリック教会の教えの全体を見渡すことでるからである。
       この本(英語版)を紹介して下さったのが、当時甲子園教会の主任で、夙川教会出身の故小池二郎神父である。師は亡くなられる(07年7月)直前まで、カトリックの正統な教義を信徒に教えるべく、このコペンディウム(英語版)の翻訳を試みておられた。
       この小池神父の試訳を基にして、未翻訳の部分(実は全体の五分の四)を勉強会メンバー(複数の翻訳経験者)が手分けして翻訳して補い、日本語コンペンディウムのプリントを作り、「信徒によるカテキズム勉強会」のテキストとすることにした。

     

  3. 「日本語コンペンディウム」のWeb上での公開について

       夙川教会の信徒による勉強会が日本語コペンディウムのプリントを作りつつあるのを、他教会の方が知り、その翻訳プリントを入手したいとの申し入れがあり、さらに、いっそのこと“夙川教会「信徒によるカテキズム勉強会」訳(試訳)による「日本語コンペンディウム」”をブログで公開してはどうかとの提案があった。
       08年3月、信徒評議会会長(当時)が、翻訳文のWebでの公開について池長大司教に許可を求め、承諾(口頭)を得たので、昨年10月から今年5月までに勉強会で討議した訳文を逐次掲載したい。6月以降のものは、勉強会のあった翌月中に掲載することを原則としたい。
       また、各月の勉強会の雰囲気を少しでも伝えるため、“「勉強会」便り”を翻訳文の後に記すことにする。

以上
2008年6月20日
 

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《「勉強会」便り》1

  1. 07年10月28日8時半のミサの後、「信徒によるカテキズム勉強会」の初会合が開かれた。
    初日にどれだけの人が来てくれるか、心配であったが、13名の方の出席があった。この種の会合で、10名以上の人が集まってくれれば、上出来と考えていたので、一安心した。
     

  2. 席上、参加者の一人から、明治以降のキリスト教宣教再開以降の、カトリック教会の信徒に対する教理教育書(公教要理、カトリック要理)の変遷について簡単な説明があった。それによると、最初に全国共通の統一の「公教要理」ができたのは、1896年(明治29年)のことであった。カトリック教会の新約聖書発行が1910年(明治43年、ラゲ訳)のことであるから、聖書の発行より14年も古いことになる(詳しくは別欄「日本の『公教要理』の歴史」を参照ください)。
     

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《「勉強会」便り》2

  1. この「序文」(05年3月20日付け)の特色は、枢機卿ヨゼフ・ラッツィンガーの名前で書かれていることだ。「コンペンディウム;カトリック教会のカテキズム」がベネディクト16世によって公布されたのが05年6月28日のことであるから、公布の3ヶ月前には「コンペンディウム」は出来上がっていたことになる。この間に教皇ヨハネ・パウロ2世がお亡くなりになり、ラッツィンガー枢機卿が教皇に選出され、ベネディクト16世となられたのである。つまり、「コンペンディウム」は「序文」の起草者と公布者が名前は異なっているが、同一人物であるという珍しい文書となっている。
     

  2. 説明の第3項で、「コンペンディウム」は「カテキズム」と同じ構成になっていると強調しつつ、それについて「カテキズム」より詳しい解説を行っている。これに関連して、ラッツィンガー枢機卿の次の発言(1984年)が参加者から紹介された。「信仰に関するすべての話は、・・使徒信経、主の祈り、十戒、秘跡という基本的四本の柱によって組み立てられる。・・キリスト教徒はここに、信ずべきこと(クレド、使徒信経)、望むべきこと(主の祈り)、なすべきこと(十戒)、以上のすべて生命の場(秘跡)を見出すのである」(V.メッソーリ「信仰についてーラッツィンガー枢機卿との対話」97頁)。詳しくは別欄の「カテキズムの構造について」を参照ください。
     

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《「勉強会」便り》3

  1. 設問2の「あこがれ」について:英文ではdesireとなっており、原訳は「熱望」であったが、「渇望」の方がよいのではないかという意見が出された。確かに設問2のすぐ上に「わたしたちの魂は、あなたのもとに憩うまでは安らかではありません」というアウグスチヌスのことばが引用されており、「渇望」と訳すのが適切のように思えるがが、「カトリック教会のカテキズム」(以下「カテキズム」と略)を調べてみると、「あこがれ」となっているので、これを採用した。
    「カテキズム」は司教協議会の公式訳であるから、今後も、勉強会では、調べて判明したものは、原則として「カテキズム」の訳語に従うことを決めた。
     

  2. 設問4で「啓示に照らされる」と表現が出てくるが、信者にとっては、「啓示」という言葉はごく普通に使われるが、一般の日本人が設問4を読めば、「啓示」という言葉に、すこし戸惑うのではないか、という意見があった。確かに、日本人の思考の根底にある神道思想、仏教思想には「啓示」という概念は、ほとんど無いように思われる。
     

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《「勉強会」便り》4
 

  1. 設問7から設問9は、神の啓示がキリストに於いて完成される段階を説明したものだが、所謂旧約時代の啓示が二つの段階にわけて説明されている(設問7,8)。このことに関連して、ある神父から聞いた話として、次のような話の紹介があった。「旧約聖書は二つの部分に分けることができる。どこで分けるかと言えば旧約聖書冒頭の創世記の1章1節から11章9節までと、それ以外の部分(創世記11:10以降の旧約聖書全体)である。つまり創世記11;9までは、人類と天地創造の話に始まって、人類全体に関する啓示が教えられているのに対し、創世記11:10以降はアブラハムを祖とするユダヤの民に関する話となっている。」
     

  2. 「信仰の遺産」は英文ではthe deposit of faithになっている。「カテキズム」では「信仰の遺産」と訳されているが、depositの意味は、日本語の「遺産」という言葉から受けるイメージとはかなり違うのではないかという議論がなされた。「遺産」はどうしても過ぎ去ったものという感じが強いが、depositは現在も使用している保管所、倉庫という意味である。参加者の一人からdepositには「鉱床」という意味もあるという指摘もあったが、これはdepositの意味を理解するのに参考になると思う。The deposit of faithは設問14で「(聖書と聖伝は)同じ神の泉から湧き出るもので、教会がそこから確かな啓示を引き出す聖なるthe deposit of faith(信仰の遺産)を共に形成します。」というふうに使われている。「信仰の遺産」は現在も生きていることを正しく認識しておかねばならい。
     

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《「勉強会」便り》5
 

  1. 設問17の聖書、聖伝、教導職の関係が話題になった。聖書がキリスト教の啓典であることはよく知られているが、日本では聖伝という言葉は殆ど知られていない。キリストの啓示を生きたことばで正しく伝達する使徒からの伝承(聖伝)と、それを保証する教会の権威(教導職)を認めないなら、キリスト教は成り立たないと考える。新約聖書の各文書は50年代から2世紀初めに書かれたものだが、現在の形での新約聖書の成立は397年のカルタゴ宗教会議の時であり、この新約聖書の成立を待ってキリスト教が始まったのではない。
     

  2. 聖書、聖伝、教導職の関係を理解するヒントとして、技術系の仕事に携わっている参加者から「機械(技術)の世界には、authentic partsという概念があり、それぞれはパーツであることに変わりはないが、そのパーツがなければ、その機械そのものが成り立たないもののことを指す」という説明があり、参考になった。
     

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《「勉強会」便り》6
 

  1. 設問20の旧約聖書の正典46文書について:今日の日本の教会では、ミサで朗読される聖書をはじめ、カトリック出版物で引用される聖書はほとんどすべて「新共同訳聖書」である(例外はミサ中の答唱詩編で、これは典礼委員会訳が使用されている)。この新共同訳聖書から、教会の教える旧約聖書の正典46を正しく選び出すことができる信徒は、あまりいないのではなかろうか。新共同訳聖書の目次を見ると、旧約聖書に39、旧約聖書続編に13、合計で52の文書が載っている。
    教会が旧約聖書の正典は46と教えているのであるから、「新共同訳聖書」はカトリック教徒も「利用できる」聖書ではあっても、カトリック教会の聖書ではないことを忘れてはならない。
     

  2. 旧約聖書の正典をカトリックでは46、プロテスタントは39としている。この違いは、カトリックがギリシャ語の七十人訳聖書に基づいていているのに対し、プロテスタントはヘブライ語聖書を基準にしていることによる。このように聞けば、一見、プロテスタントの方に言い分があるように思えるが、次の事実を忘れてはならない。原始キリスト教会の聖書は七十人訳聖書であった。だから、新約聖書における旧約引用は主として七十人訳によっている。実際、新共同訳聖書の末尾にある付属の「新約聖書における旧約聖書からの引用箇所一覧」を見れば、そのことがよく判る。この一覧でLXXの印がついている所は、七十人訳聖書にしか出ていないことを示している。七十人訳聖書なしには、新約聖書は成り立たないのである。(旧約聖書の正典について、別欄の「新共同訳聖書(旧約)とカトリック教会の旧約聖書」を参照下さい。)
     

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《「勉強会」便り》7
 

  1. われわれの勉強会に2月にはスペイン語、4月からはフランス語のコンペンディウムをお持ちの方が参加しており、訳語の選択に幅ができるようになった。その好例が設問25に出てくる「神に自分をゆだねること」という表現である。英文ではthe full surrender of ourselves to Godとなっており、「自己放棄」の意味だという意見がだされたが、スペイン語、フランス語に照らし会わせてみると「自分をゆだねる」という訳が適切ということになった。
     

  2. 設問27の「父と子と聖霊という3つの御名をもっておられる唯一の神を信じること」の「3つの御名」は英語ではin three Personsであり、大文字が使われているから「ペルソナ」とか「位格」という語を用いるべきかもしれないが、「御名」は大変わかり易く、特に誤解を招くこともないと思われ、この語を使うことにした。
     

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《「勉強会」便り》8

 

  1. 設問31で「信仰を表明する文言」としたのは英文ではthe formulas of faithとなっている。Formulaには「教義」という意味があり、原案では「信仰教義」と訳されていたのだがフランス語版でformulaのところがenonceとなっており、これは「表明」というニュアンスの言葉であるという指摘があり、また、カテキズム170項でformulations of the faithを「信仰を表明する文言」と訳していることから、この訳を採用した。
     

  2. 設問33の「信仰のシンボルはどのようなものか」と問い掛けられたら、普通の日本人の信徒なら少しとまどいを感じるのではなかろうか。「シンボル」とは象徴、表象、しるしの意味であるから「信仰のしるしは何?」と言われても言葉につまってしまうように思う。しかし「使徒信条」はラテン語でSymbolum Apostolicumと云うこと知れば、納得がいく。つまり、シンボル(symbols)という言葉自体が「信条」という意味を持っているのである。カトリック教徒にとって「信条」が信仰内容全体を表象するほどに重要なものであることがわかる。カテキズム188項に「シンボル」という語にたいする説明が載っているが、大変参考になる。
     

  3. 設問34の「三つの御名」の英語はthree Personsである。設問27で同じ大文字のPersonsを「御名」と訳しているので、カテキズム189では「三者」となっているが、「御名」を採用した。
     

  4. 設問36では“信仰告白で「わたしは神を信じます」と言明することが最も重要”と解説されているが、現在、日本の教会でミサの中で公式に使われている使徒信条では最も重要なはずの「わたしは」という主語が抜けていることに気づく。その点、明治以来使われてきた文語の使徒信経は「われは、天地の創造主を信じ、全能の父なる天主(神)を信じ・・」となっており、こちらの方が最も重要なことをハッキリ伝えている。
     

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《「勉強会」便り》9

 

  1. 設問37でイエスも聖霊も神であると信じることは「唯一の神のうちにいかなる区別をもたらしはしないのです」と説明されているが、「区別」と訳した英語はdivisionであり、カテキズムでは「分割」と訳されているが(202項)、敢えて「区別」という語を用いた。
    父と子と聖霊の三位一体の説明は何度聞いても理解しがたい神秘だが、参加者の一人は、ある神父から「聖パトリックは民衆に三位一体をクローバーにたとえて説明した」という話を聞いたそうだが、これは面白いたとえである。

  2. 設問38で「名状しがたい神の名」とあるが、英語ではineffable name of Godで原訳ではineffableを「畏れ多い」と訳されていた。旧約の人々の神に対する畏敬の念はすこぶる強く、それを口にすることを避けたといわれているから、「畏れ多い」という訳は適切な訳と思えるがカテキズムでは「名状しがたい」となっているので(206項)、こちらを採用した。

  3. 設問44と45で「神秘」という言葉が数回使われているが、これはmysteryの訳である。原訳では「秘儀」となっていたのであるが、カテキズムに限らず最近のカトリック出版物は大抵「神秘」を使っているようである。「神秘」が一般化したのはミサが日本語で挙げられるようになり、記念唱で「信仰の神秘」と唱えられるようになってからではなかろうか。古くは「玄義」という言葉が使われていた(例えば「三位一体の玄義」)。1959年4月の教区長会議で「玄義」は新用語「奥義」に替えられているが、「奥義」から「神秘」になったのは何時のことか定かでない。「奥義」が使われていた時代には「秘儀」も並行して使われていたことも確かである。

    勉強会の席上「神秘」は本来の意味を伝えるには、現代の日本語の神秘に使い方からみて、軽すぎるという意見が出された。また、ある参加者から、「秘儀」の方がずっと理解しやすいという感想も聞かれた。
     

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《「勉強会」便り》10

  1. 三位一体を説明する設問47、48、49の三つの問答にPerson(s)という用語が6回使われているが、これをどう訳するかが問題となった。本来は「カテキズム」が使っている訳を採用するのが原則であるが、「カテキズム」は「神の三者」(254、255項)としたり、「神の三位」(258項)としたりしており、場合によっては「おのおののかた」(単数形、258項)、「ペルソナ」(243項)とも訳している。勉強会ではThe three divine Personsを「神の三者」とか「神の三位」と訳するのはしっくりこないという意見が多かったので、Person(s)はすべて「ペルソナ」と訳しカッコ内に「カテキズム」訳を記すことにした。カテキズムは251項で「教会は三位一体の教理の形成のため、『実体』、『ペルソナ』または『ヒュポスタシス』、『関係』などの哲学に由来する概念を借りて、固有の用語を展開していかなければなりませんでした」と断っているが、現在の日本のカトリック教会では英語のPersonにあたる訳語の統一はなされていないようである。「カテキズム」の公布を受けて日本の司教協議会が編纂した公式要理書である「カトリック教会の教え」(2003年刊)では主にペルソナいう用語を使っているが、位格や三者という言葉も使って解説している(p112-p118)。公会議(V2)後の1972年に改訂された「カトリック要理」では「イエズス・キリストは、神はただご一体で、しかも父と子と聖霊というご三かたであると啓示なさいました。(教会の伝統的な表現に従えば、そのご三かたは、それぞれペルソナと呼ばれています。)」と設問36で説明している。
    ちなみに夙川教会の梅原主任神父は入門講座で三位一体を説明するとき、「ペルソナ」という用語は、あまり使わないと言っておられ、「神の三者」という用語の方がよいというご意見であった。
     

  2. 設問52で世界創造の業は父である神にのみ帰するものではないと教えているが、子と聖霊が創造の唯一不可分の根源であることは聖書から学ぶことができる。

    *「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:1-3)

    *「天にあるものも地にあるものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(コロサイ1:16-17)

    *「御言葉によって天は造られ主の口の息吹によって天の万象は造られた」(詩編33:6)

    *「あなたは御自分の息を送って彼らを創造し、地の面は新たになる」(詩編104:30)
     

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《「勉強会」便り》11

  1. 設問59から61は天使に関する解説となっている。ニケア・コンスタンチノープル信条の「見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。」の「見えないもの」とは主として「天使」を指していること(設問59)、そして教会は、典礼において天使とともに神を賛美している(例えば「栄光の賛歌」「感謝の賛歌」)こと(設問61)を教えている。また、「守護の天使」の存在も思い起こさせている。これらのことは、大半の参加者には「忘れていたものの再発見」のように受け取られたようである。

    参加者の一人から「今まで、要理の勉強で天使のことなど、一度も聞いたことがなかった」という発言があったが、日本の教会では公会議(V2)以降なぜか天使についてあまり教えなくなったようである。公会議以後の1972年に改訂された「カトリック要理」はそれ以前の「カトリック要理」に比べ、「天使」に関する解説が極端に減っているし、また「カテキズム」では「天使」に関係する解説に3頁を当てているのに対し、日本の司教協議会が編集した「カトリック教会の教え」では「天使と悪魔」という項目のもとにわずか10行の解説で済ましている。

    「天使」のことにあまり触れないという傾向は祈祷書にも表れている。1995年にサンパウロから発行された東京大司教認可の「カトリックの祈り」は、従来、文語で唱えられてきた主要な祈りを口語に直して載せてあるのだが、その中に「床につく時の祈り」(文語では「就床時の祈」)がある。この祈りは、文語では、イエス、マリア、ヨゼフに対する三つの短い祈願があり、そのあとに「守護の天使、保護の聖人、われを照らし、守り、導き給え。アーメン。」で結ばれているのだが、この部分が口語の祈りでは、省かれてしまっている(「カトリックの祈り」78頁)。

    典礼歴では、9月29日をミカエル、ガブリエル、ラファエルの三大天使の祝日と定め、毎年祝っている。
     

  2. 設問66で「すべての人間は神にかたどって造られている限りにおいて人格の尊厳を持っています。」と説明し、設問70で「霊的な魂(霊魂)は親から来るのではなく直接神によって造られ、・・」と教えている。このことを信徒はごく当たり前の真理として受け取り、基本的人権が尊重されなければならい原理が、ここに由来すると容易く理解している。しかし、世の中で人権尊重が声高く叫ばれているわりに、では「なぜ人権は尊重されねばならないのか」と問われれば、的確に答えられる識者はあまりいないようである。席上、次のようなエピソードが紹介された。

    兵庫県で人権に関するシンポジウムが開かれ、その司会を信徒であるN神戸大名誉教授がされたのであるが、会合に先立ち、人権問題の専門家である3人のパネリストに、N先生が「なぜ人権は尊重されなければならいか」を問うたところ、まともに答えられた人はおらず、「憲法にそのように書いてあるから」という程度の答しか返ってこなかったそうである。
     

  3. 設問71に「さらに(人間は)神の『協力者』として地を従わせる使命を持っています。」という解説がある。これは理性では、その通りと理解できるが、日本人は仏教の「一切衆生悉有仏性」の思想に知らず知らずに影響されているせいか、どこか自然を人間の仲間と考える傾向があり、「地を従わせる使命を持っている」と云われると、感覚的にしっくりこない面があるという意見が聞かれた。
     

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《「勉強会」便り》12

  1. 今回は原罪の教えに関する箇所を学んだのであるが、わたしたちはいわば罪の環境が形成されている世の中で生きており、体験的に罪の現実を知っているから、活発な意見交換があった。つまるところ、なぜ世の中に悪があり、なぜそれを神様は許容されるのか、また人祖の犯した罪(原罪)がなぜ子孫に伝わるのかという疑問である。これについてカテキズムも「神が悪魔の行動を妨げておられないのは深い神秘です」(395項)、「原罪が子孫に伝わって行くということは、わたしたちには十分に理解できない神秘です」(404項)と述べているように、理性だけでは解けない問題で、信仰の目によってのみ「罪があふれるところでは神はそれ以上にあふれる恵みを与えました」(設問74)、「堕罪は『わたしたちに偉大な贖い主をもたらした』ので、後に『幸いな過ち』と呼ばれることになります(復活徹夜の典礼)」(設問78)という真実が理解できるのであろう。
     

  2. 設問76で原罪とは原初の聖性と義が奪われた状態と定義し、われわれが「犯した」のではなく「受け継がれた(うつされた)」罪と教えている。この「受け継がれた(うつされた)」の英文はcontractedであり、カテキズム訳は平仮名で「うつされた」となっているが、参加者から「移された」の意味かという質問があった。contractには「(病気に)かかる」の意味はあるが「移動」の意味はないこと、また「(アダムの罪は)繁殖によって」伝わると解説していることから類推すると「伝染(うつ)された」「染まった」の意味ではないかという見解が出された。しかし、「移された」や「伝染された」では平面的な感じが強く、時間を越えて伝わる(「繁殖よって伝わる」)というニュアンスに乏しいという意見がだされ、結局、「受け継がれた」を採用することにしたが、やや無理した意訳であるので、カテキズム訳の「うつされた」もカッコに併記することにした。
     

  3. 設問78は、神は罪に堕ちた人類を見捨てず、救い主を使わすことが、創世記3:15においてすでに予告されていることを、原福音(protoevangelium)という用語を使って解説している。創世記3:15が原福音と云われているということを教えているのは、カテキズムが最初で(410項)、従来の日本の「カトリック要理」では教えていない。また「教会の教え」では堕罪に関して創世記3:15についての解説はないが、「聖母マリアへの祈り」の解説のところで触れている(「カトリック教会の教え」441頁)。
    創世記3:15「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
     

  4. 今回から、この勉強会に参加している方からのこの会に対する感想を逐次掲載して行くことにする。初回はMさんから頂いたものである。

 

〈カテキズム勉強会に参加して〉

   私は2006年4月よりのジョバンニ神父様の聖書研究会に参加し、講話の度毎に目から鱗が落ちる思いでした。さらに深く聖書を理解したいとの思いでした。昨秋世話人より、コンペンディウム勉強会の声に飛びつきました。私は日頃よりカトリックの芯の教義を知りたいと渇望していました。コンペンディウムを学ぶことは途方もない大きな神の賜物(聖書)に少しでも近づくことが出来るからです。勉強会は常に10数名参加し一語一語を真剣に解釈、検討され、私はじっと耳を傾けています。質疑に際しては、赤ペンで染まったメモから世話人が聖書の出典を示し、正しい理解に努めています。現在までに印象に残った事項は“信仰と科学”、使徒信条の“Credo”でした。全員より発言がありました。
   私の仕事は常に死と対峙しています。昨年四月より特老施設に奉仕し、看取りの機会が増えました。今回の勉強会を通して他者を見る目の変化を感じます。私は生命倫理を看護学生に教えて5年になります。山川草木桎梏皆神宿ると考える日本人の中で、生命(いのち)についての教えを受けたことのない学生が驚きの目をもって自己を見つめます。彼女たちの今後の人生に多少とも指針を与えるものと考えています。

   教義の理解のため、今後とも勉強会に参加します。 神に感謝

以上
 

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《「勉強会」便り》13

  1. わたしたちの「勉強会」が発足したのは、昨年の10月28日であるから、この10月の会合で丁度一年が経過したことになる。10月度の集まりを含めて13回の「勉強会」が開かれたが、幸い、少ないときでも12〜3名の方々が集まり真剣にカトリック教会の教えを学んできた。これまでに一度でも出席した人の数は30名に達している。この「勉強会」は、もともと仲の良い教会内の友達同士の集まりでは決してなく、お互いの名前を知らず、親しく口をきいたこともなかった人たちの集まりといった性格の方がずっと強い。つまり、洗礼は受けたが(出席者には2名の未信者の方がおられるが)、もう一度、教会の教えを学び直そうという意志を持った人たちの集いである。このような会合が持てたことを、神様に心から感謝する次第である。
    この勉強会の一つの特色は、教会の会合としは男性の比率が高いことである。因みに10月度の出席者は男子7名、女子6名であった。
     

  2. 発足一周年に相応しく(?)、10月の勉強会は「福音」(設問79)で始まっている。設問の出し方が従来の「カトリック要理」では「神の国の福音とは何ですか」(1972年版)とか、「神の福音とは何ですか」(1960年版)となっているのに対して、「人類にとって福音とは何か」となっていることに注目すべきある。そして「イエス・キリストの宣言です」という簡潔な答えとなっているのが大きな特色である。
     

  3. 設問80の「人類をキリストとの一致(交わり)に導きたいという望み」の「一致(交わり)」は Communion の訳であるが、日本語に訳し辛い語である。
    ラテン語の communio からきた語で教会用語として「聖体拝領」「交わり」「一致」「(諸聖人の)通功」の意味に用いられている。
    設問81の「ご自分の存在証明(アイデンティティ)」の原訳は「アイデンティティ」のみであったが、会合終了後、メールで identity は「自己の存在証明」のことではないか、という指摘を頂き、両方を併記することにした。
    設問87に出てくる「造られずして生まれ、父と同一実体のもの」はニケア信条からの引用なのであるが、現在、日本で使用している口語のニケア・コンスタンチノープル信条では「造られることなく生まれ、父と一体」となっている。この部分の英文の信条は「begotten, not made, one in being with the Father」であるが、87では「be gotten, not made, consubstantial with the Father」とconsubstantialという用語を使っており、これはラテン語信条の consubtantialem Patri の直訳である。Consubstantial は三位一体に於ける父と子の関係を説明するための重要な概念となっている。

     

  4. 今回はH氏からの感想文を頂いた。

    《10月のある日の勉強会の感想である。
       女性6名、男性7名の信徒が夙川教会の信徒会館の3階のいつもの部屋に集まる。今日は、とても難解なイエスの受肉(incarnation)を扱った。極論すれば、神の子イエスは、聖霊の力により乙女マリアから人の子として地上に誕生したという秘義である。信ずるか信じないかで、キリスト教の信徒であるかそうでないかの分かれ目にすらなっていく。人の知性で納得し理解できるものならば、どんなにか楽なことであろうか! 今日の論点は、@福音、A神の子とB受肉であった。いつもなら1時間半の勉強会は、2時間を越す白熱を持って終了した。心なしか、全員の顔が放心した状態に見えていた。

       今の時代は、飽食で精神的支えを失った混沌の時代とも言える。その中で私達は、神に何をより頼み、神が何を為し得るかを期待するのであろうか? 神の沈黙かそれとも神の奇跡か? いつの間にか目先の小事ばかりに囚われている。イエスの説く福音は、気休めではない筈だ。現実の悪に対して「否」と宣言し、行動をもって変革する勇気を養うことも必要だと痛感する。受洗7年目の私にとって、大切なことは、カトリック教会の中に渦巻く異論・変論に戸惑うことなく、要理教育の充実により信仰を堅くすることである。           
       第2バチカン公会議以降、聖書に触れ、読み、親しむ機会は、聖書100週など多くあり、今も続いている。その反面、キリスト教の要理教育など根本教義に関することは、教会や信徒も避けてきた傾向すらあるのでは? 求道者や信徒と共に要理教育の勉強をと、心の中に渇望や情熱があったとしても、どう学び・教えればいいのか戸惑うばかりであった。全てを曖昧にしていく日本の風潮に対して、「否、そうじゃない」と一人一人の個人が守り抜く「心意気」を養い育てる必然性があるのではなかろうか! 宣教魂のある司祭と信仰宣言する信徒達の集まりが、きっと可能にしてくれると信じている。
       所属する教会が異なっても、こうして毎月第4日曜日に集まり、決して仲良しクラブでない雰囲気の下、要理教育を勉強する機会が得られたのは、誠に時期に適っている。   神に感謝!
     

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《「勉強会」便り》14

  1. 11月度は設問90から100まで進む予定であったが、取り上げられているテーマが興味深かったために、活発な意見が交わされ、設問96(無原罪の御宿り)までしか進まなかった。
    まず、設問90で「(人間としての)イエスは経験をとおして多くを学んだ」と説明され、カテキズム472項で「人間的なものであるこの(イエスの)知識には、限界があり、時空の中で存在するものとして、具体的状況に従って機能した」とあることから、「イエスは地動説に関する知識は持っていなかったはずだ」とか「イエスの、人間の置かれている悲惨さへの理解も時空の中で増していき、それに耐え(我慢し)、その頂点がゲツセマネでのイエスの祈りではなかったか?」など興味深い発言が交わされた。

  2. 設問91「・・・二つの意志はどのように協調したか」の「協調」は英文ではcooperateであり、原訳は「協働」となっていた。この「協調」か「協働」かについて討論され、カテキズム475項に「・・・神としての本性と人としての本性によるそれぞれの意志と働きを持っていますが・・・」と解説されていることから、「協調」が良いということになった。

  3. 設問94の解説に「聖霊の力によって人間の協力なしで」とあるが「人間の協力なしで」は英文ではwithout the cooperation of a manである。a manはここでは「男」の意味であり、端的に「男の協力なしで」と訳したらどうかという意見が出されたが、日本語の表現としては「人間」の方が適当であるということになった。

  4. 設問96の「マリアの無原罪の宿り」の教えは、参加者全員の関心のある問題であったが、時間切れのため十分な討議ができなかった。
    参加者の一人から「この教義は、公会議で定められたものでなく、教皇ピオ9世の1854年の大勅書によって宣言されたものであり、当時教会の内外に大きな波紋を呼んだらしい。しかし、この教えの正しさを保証するかのように1858年ルルドでマリアの出現があり、マリアご自身が『無原罪である』と証言されたのである。ルルドでは数多くの奇跡が起こったことは周知の事実でるが、なかでもノーベル医学賞者のアレクシー・カレルの眼前で奇跡が起こり、カレル自身それを認め公表したことは有名である。この経緯を記した彼の著書『ルルドへの旅・祈り』(春秋社)がある。」という説明があった。

  5. 今回の感想文は女性の I さんから頂いた。
     

11月勉強会感想

いつもお世話してくださる方、また試訳をして下 さった方々に 改めてここでお礼を申し上げます。本当に大変な準備をされておられて、これも一重にみなさんのご自分の信仰への更なる確信のためと存じますが、このような学びの場を作られたみなさまの実践力に敬服するばかりです。

本日の勉強は、設問90〜96で、前半90〜93は、イエスが人となられたのちも神性を有されていたことと、それと人性との関連について、その知識、意志、肉体がどのような意味を持つのかが示されている。
全能の神と同一存在ならば、神の計画を自ら知っていながら、なぜ人としてあれほど苦しまなければならなかったのか、参加者か ら様々の意見があがり、興味深かった。

後半の設問94〜96は、イエスの御宿りについての説明であり、当然のことながら母マリアについての言及がある。まず「乙女マリア」という表現だが、これはVirgin Maryの訳であるが、Virginは正しくは「処女」であろう。
参加者の一人から、「乙女」という日本語は処女かどうかに関係なく「若い娘」をも意味するのです、という 説明を受けると、ははあ〜ん、最初に邦訳した日本人は、やっぱり 神父さんかなんかだったから、訳語に困って「処女」というあけすけな言葉を避けて、「乙女」と いうやんわりした表現を使われたのかなあ、と思った。「a man の助けなく懐胎した」のa man を「男性」でなく、「人間」と訳すことでよしとするのは、やはり日本のカトリック教会はお品(ヒン)がよろしいということ なのであろうか。

また、「神の母」という表現が431年のエフェゾ公会議で承認されるも、16世紀のプロテスタントの抵抗を受けてきたことを聞くと、ふだん何気なく口にする表現も、長い歴史をふまえてきているのだ、と感動を覚えた。さらに、「無原罪の御宿り」 ── マリアは神の祝福により唯一原罪を免れた人間であり、そのマリアにイエスが宿られた ── という教義は、1854年、教皇ピオ9世の教皇の不可謬性をもって教義として公布されたものであり、教会の内外に大きな波紋を呼んだこと、そして、1868年、ルルドに現れたマリアが自ら自分は無原罪の存在であったということを表明したという、要理に書かれていない大事な事実を勉強会で知らされると、やはり信徒はこうしたことをまず知り、そしてそれについて教会の一員として考えることができればよいな、と思った。

昔、あるアメリカ人女性に、教皇の不可謬性がなんてあり得ない、彼も一人の人間だ、だから私はカトリック家庭に生まれたが英国国教会へ移った、と説明を受け、それはもっともだ、と私は思った。(なぜ彼女が英国国教会へなのかはわからない が。)教皇の不可謬性の神学的根拠を知りたいと前々から思っている。
ピオ9世が表明したマリアの「無原罪性」が、マリアのご自身による表明で明らかにされたというのが事実だとしても、それが一体、イエスが私たち人間に命を賭けて伝えた「神の愛」とどういう関係があるのか知りたい。マリアが「無原罪」であったということがいかなる有意義な意味をイエスの教えに対して持つのであろうか。
このテーマはまだ次回へと続くので、来月の勉強会での学びをこれから楽しみにしている。

最後にK氏より、ノーベル賞受賞科学者アレクシー・カレル著 「ルルドへの旅、祈り」(春秋社)の紹介があり、この勉強会が要理を単に受動的、文言的に読み進めていくことを目的にしているのではなく、要理の一つ一つが持つ意味を考察していこうとするものであることを改めて実感し、参加されている全てのかたのプレゼンスに改めて感謝し、多くの恵みに満たされていることを感じた次第である。fin

以上
 

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《「勉強会」便り》15

  1. 12月は、先月の「無原罪の宿り」(設問97)に続いて、マリアの処女受胎、終生の処女の教えを学んだのであるが、参加者のマリアに関するこれらの教えに対する関心は高く、いろいろな意見や疑問が述べられ、結局、97,98、99の三設問のみを討議するだけで、時間切れとなった。

  2. 設問97のルカ1:28の引用は英文ではfull of graceで新共同訳は「めぐまれた」となっているだけで、原意が正しく伝わらないように思うので、カッコ内に「恩寵に満たされた」と記すことにした。

  3. 98の設問「イエスの処女受胎とは・・」は原訳では「おとめがイエスを懐胎するということは」となっていた。英文はthe virginal conceptionで、この項までvirginをすべて「おとめ」と訳してきたのであるから、「同一用語、同一訳」の翻訳原則からすれば、ここでも「おとめ」とすべきだが、カテキズムでは496項で「処女受胎」と訳している。設問99の「終生の処女」も同様で、このような翻訳上の混乱が生じるのは、英語のVirginに当たる語を、「信条」では公式に「おとめ」を使い、公会議の公文書である「教会憲章」(第8章「キリストと教会の秘儀との中における神の母・処女聖マリアについて」))では「処女」という用語を採用していることに起因していると思われる。信条で使われている「おとめ」は教義上「処女」の意味であるが、現在の社会で、「おとめ」という言葉から「処女」を連想できる人間がだんだん少なくなってきている状況を考えれば、誤解を避ける意味からも、教会は用語を「処女」に統一すべきではなかろうか。

  4. 設問99の「終生の処女」の教えは、過去のどの要理書にもはっきりと記されている教えだが最新の要理書「カトリック教会の教え」(2003年刊)には、このことが記されていない。

  5. 12月度の感想文はI氏から頂いた。

 

12月勉強会感想

   本日の勉強会は設問97から100まで抄読したが、解釈に伴いその内容に対する議論が白熱し、大掃除の時間がきてしまい99の箇所で時間切れとなってしまった。設問98は乙女マリアがイエスを聖霊の力だけで懐胎するという箇所で11月の勉強会から継続している問題であった。乙女(処女よりももっと広い意味の若い女性という意味)か処女ということばが適切なのかということである。また設問99は乙女マリアがヨゼフと結婚してからも処女であり、福音書に記載ある[イエスの兄弟姉妹]という箇所はカトリック教会はイエスの従兄弟など近親者のことを指すという解釈をしている。これに対しプロテスタント教会は乙女マリアがヨゼフと結婚してからは一般の夫婦と同様の生活をし、イエスの弟妹を産んでいると解釈し、永遠の処女性を否定している。

   この議論の中で、マリアがイエスを産む前に処女でなければならなかった宗教的意味はあるのか? また、イエスを聖霊の力のみで出産した後にも永遠の処女でなければならなかった意味はあるのか?が疑問でありこれは教会がそのようにしなければならなかった理由があるのではないか。またそのような教会の姿勢が、男性優位で女性にのみ処女性(処女でなければ汚れているなど蔑視)や貞節を強いてきたことに繋がるのではないかという意見が出された。私はこの問題は非常に重要な問題であると考えている。

   まず、マリアの処女懐胎についてであるが、勿論自然科学的にみるとあり得ない話であるが、これはカトリックもプロテスタントもおよそ一致している信仰ゆえの真実であると思う。歴史的には(日本においてもかつてはそうであったが)男性の結婚前の性交渉には寛大で女性にだけ厳しいという社会情勢は存在していたと思う。しかし、現在のカトリック教会は女性にのみ厳しいという教えではないと理解している。さらに一般の封建的な考え方では汚れという考え方をするが、神の前においては男も女もみな罪を犯してしまう存在であり、決して汚れたという考え方ではない。であるから、男も女も神の御前では結婚前の性交渉は認められないというのが、旧約新約聖書およびカトリック教会の教えであることは明白である。しかしながら、人間は非常に弱いのですぐに欲望につまずいてしまう。男と女が存在する限りこの過ちを犯してしまうことが多いのも事実である。この罪を犯したから汚れるのではなく、神様と向き合って過ちを素直に認めていくことが大切だと教えていると理解している。 恋愛におちて深い関係になり、破局するということがあっても、それと向き合う姿勢が大事であり、それで教会から離れていくのは本末転倒であろう。しかしあくまで、教会の教えとして「性交渉は結婚に関係なく好きならば自由にしても良い」と言えばそれはキリストの教会ではなくなる。したがって、カトリック教会が、若い信徒に対してこのような問題を明確に教え、議論することは必要であると考える。

   それは離婚問題についてもいえるのではないかと思う。カトリック教会は離婚に対しては厳しいというのは事実だと思う。しかし、社会で生活していると、いろいろな人間的な事情で離婚をしてしまう或いはせざるをえない男女も当然いると思う。信者の方でそれ故にカトリック教会に居づらくなって、離れていくことがあるとしたら、非常に残念で教会はそれに対してもっと積極的に取り組む姿勢が必要だと思う。神は見捨てることは決してしないと思う。しかし、教会が「離婚は自由です。どうぞご自由に」とは言わないのは当然である。遠藤周作氏も同じようなことを述べている。

   しかしながら、マリアがイエスを出産してから、ヨゼフと夫婦であるにもかかわらず、永遠の処女であったという点に関しては、(大きな声では言えないが、)私も本当かな?というよりそのことが信仰上すごく意味の大きなことなのかは正直理解に苦しむところです。
   私自身は、幼児洗礼ではなくカトリックの環境で育ってきた人間ではありません。幼少時は親の親しい人にプロテスタント教会の人が多かったように思います。それと、中学高校でカトリックの学校へ進学し、洗礼を受けているからかもしれませんが、全知全能の神、イエスキリスト、聖霊と私達人間という概念が強いのです。したがって、マリア様や聖人にとりなしを求めるという気持ち(習慣)は薄いのだと思います。天使について教えてもらった記憶はありません。教皇の不可謬性については、ずっと後になって知りましたが・・・少なからず驚いたというのが本音でしょうか?
   ただ、カトリック教会がしっかりしていることはキリスト教全体にとって重要なことだと思います。

   最後に、この会に参加させていただいて一年になります。この会の為に下準備をしていただき、進行してくださる方々に感謝いたします。(本当に大変な労力でしょう)それと共に参加されている方々の博識が高く、語学能力が高い方々が多いことに驚いており、私自身はそれにやっとついていっているという感じです。私も、職業上、自然科学や医学生物学関係の英文を読むことはありますが、このような(文系の)聞き慣れない単語の多い難解な文章は皆様方の力を借りるのが一番だと思っています。さらに、聖書や教義に関しては素人であり、中学高校以来このような信仰上の問題に対して、質問や討議ができることが非常に私自身の信仰を深める上で有意義だと思っています。仕事があったりして全出席とはいきませんが、少なくとも今はできるかぎり出席しようと思っている会です。

以上

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《「勉強会」便り》16

  1. 設問100の「・・マリアは、教会の象徴」の「象徴」は英文ではfigureであり、symbolではないので括弧内に「姿、かたどり」という語を入れた。「カトリック教会の教え」はマリアを「教会の象徴」という言葉で説明している(107頁)。また、教会憲章は53項でマリアは「信仰と愛の点で、教会の象型、最も輝かしい範型」と言っている。

  2. 1月の会合は、前月時間切れとなった設問100のみを検討し、その後は設問94から始まっているマリアに関する教え全般について、出席者の自由な意見交換の時間とした。マリアについての関心は非常に強く、活発な討論がされて、あっという間に時間が過ぎていった。この間の状況はW氏が書いて下さった感想文から読み取って頂きたい。

     

  3. W氏から頂いた感想文

       この会に参加するきっかけはある学校の先輩に誘われたことでした。もう長い間、公教要理を読むことも聞くこともなく、自分の信仰はこれでいいのだろうかと思っていた時だったので参加することにしました。
       この会は、カテキズムの要約の英語版を日本語に翻訳された文章を読んで、我々一般人が読んでおかしいとか、生硬に感じるとかいうことがないか、もっといい表現がないかを参加者で話し合い、信徒の手作りカテキズムを世に出すということを第一の目的としていると理解しています。それを果たすためには、当然書かれている内容を理解し、自分がそれを受け入れることが前提となります。しかし読んでいくと内容によっては素直にそのまま受け入れるのが難しいことも時々あるいはしばしばあるというのが実情であるように思えます。
       そんな時は、その内容についてのそれぞれの人が持っている考えを述べあうことになり、翻訳はなかなか進まないことも度々でてきますが、それはそれでこの会のとてもいいところだと私は思っています。
       今回は「マリアは終生処女であった」というところで参加者のなかに疑問があがって議論が盛り上がりました。ある参加者から「『マリアの処女受胎』は信じるが『終生の処女』というところは違和感がある。何故『終生処女』であらねばならないのかわからない。ここには、カトリック教会が男中心の社会でありそれ故の『処女』に対する過剰な憧れ尊重ないしは『処女』喪失に対する蔑視があるように感じられる」との意見が出されました。いつも会をリードされているKさんは「パウロは彼の書簡のなかで若い男女に対し神に仕えるために独身でいるように勧めている部分もあるが、現在のカトリック教会は結婚を秘蹟として定めており、結婚した人を処女よりも貶める考えはないと思う」と説明されました。私はこの話が出るまで「終生処女」ということに全く関心はありませんでした。私にとっては、イエスの御ことばが大切なのであってマリアはそのイエスの母であり、それ故にとりなしを願う御方であるとしか思っておらず、「終生処女」であったかどうかは全く関心外でした。マリアに関するいろいろな教義が、教会の長い歴史のなかでひとつまたひとつと定められてきたということもこの会に来て初めて知りました。カテキズムには、この教義は聖書のどの箇所を根拠とし、どのような教父や教会博士たちの思索を経て、公会議で決定されたものであるかという注釈がついています。それを読むとなるほどと思うこともあれば、余計にわからなくなってしまうこともあります。しかし私はだからといって全てを突き詰めてゆく気にはなりません。全てを理解しようとすればそれこそ今から神学や聖書学を深く学ばなければならないでしょう。それははっきり言って不可能だと私は思ってしまうのです。自分がいい加減だなと思うこともありますが、多くの専門家、神学者、また信仰心あふれる人々が長期にわたり思索し教え全体のなかで矛盾なきものとして説明が可能であると受け入れ信仰していることなのだから自分が理解し得なくても私も受け入れておこうと思うのです。(受け入れはしますが、だからといってやはりそのようなことに関心はあまり湧きません。神の導きがあってのこととは思うのですが、なにか理論/論理の帰結のように感じてしまい、他にもっと関心を持たねばならない大切な教えがあると思うのです。)

       勿論、大海の一滴といえども知識を増すこと、理解を深めることはとても愉しいことであり、信仰もより確信に満ちたものとすることが出来ると思っています。
       幸いなことにメンバーにはとても博識な方が居られるのでその方のお話を聞いているだけでも新たな発見があります。一方で自分が発言することで他の人とは違った考えなんだとか、同じなんだとかいうことがわかるのも面白いものです。現状ではまだまだ自分の心のなかにお考えを秘めておられる方が多いように感じられますが、今後は参加者全員が一言づつでも発言されるようになり、「真理を愛する」より愉しい会になることを願っております。

以上

 

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《「勉強会」便り》17

  1. 設問101で「キリストの全生涯は啓示です」と説明されているが、これは設問9で「神の啓示の全面的かつ決定的段階は、人間となられたみことばであり、啓示の仲介者でありその充満でもあるイエス・キリストにおいて成し遂げられました。(中略)御子と聖霊の賜物の派遣により、現在、啓示は、完全に完了しています。(後略)」と解説されていたことを思い起こすとよく理解できると思う。

  2. 設問103で取り上げられている事柄(キリストの誕生、割礼、公現、神殿での奉献、エジプト避難とえい児殺し、エジプト脱出)はルカ福音書の第2章と、マタイ福音書の第2章にのみ記されている事柄である。この二つの福音書の2章を精読した上で、103の解説を読むと福音書が何を伝えようとしているかが良く判る。

  3. 設問105のイエスの洗礼の意味と107のイエスが砂漠で受けた誘惑については、現教皇ベネディクト16世が”“神学者ヨゼフ・ラツィンガー“としてお書きになった世界的ベストセラーである「ナザレのイエス」(邦訳は春秋社刊、里野泰昭訳)の第1章と第2章で詳しく取り上げられている。是非一読されることをお薦めする。

  4. 今月の感想文はM氏にお願いした。M氏は本文にある通り、未だ洗礼をお受けになっていない方である。

 

(感想文)

   先ず何時もこの会を準備して下さり、様々なお世話をして下さる方々にここで感謝の気持ちを述べさせていただきます。本当にありがとうございます。

   さて少しばかり私見を述べさせていただきます。私はこの会に参加しておられる皆様方の様に、洗礼を受けていません。しかし、このような私でも、誘って下さる方があり、この会に参加させていただいています。その私が現在直面している一番の問題は、「信仰とは」という普遍的であり又個人的でもある問題です。洗礼を受けておられる皆様方が通過されて来られた入口で止まってしまっているのです。毎週教会に来て神父様の話を聞き、様々な会合にも参加しておりますが、果たして私には「神―キリスト」に対する信仰が在るのか否か自問自答しております。家族が洗礼を受け。私自身キリスト教的な環境に居る事が長かったので、無意識のうちにキリスト教的な感覚が身に付いていますが、それが確固とした信仰心に裏付けされていないという自責(?)の念から離れられません。ミサでの神父様のお話や各会合の内容を私なりに理解しているつもりですが、周囲に居られる皆様方の理解とどの程度一致しており、どの程度相違があるのか、そこが解かりません。さらに言うならば、それらの内容が自分の血となり肉となっているかと問えば、全く表面的な理解に留まっており身に付いていないのではないだろうかと、疑心暗鬼になってしまいます。

   イエスの十字架上での死、三日後の復活、又それに先立つマリアの処女受胎、無原罪の御宿りなど今まで多くのコンペンディウムを学んで来て、文字の上、英語を日本語に置き換えるという事は出来ています。しかしそれで、それらを完全に理解したのかと問われると「諾」と返事をする事が出来ません。心の奥底まで深く入って来たと感じていないのです。

   今の私にとって主キリストの教えと同様に、山川草木悉皆仏性、悉皆成仏と説き、死ねば誰でも極楽浄土に生まれ変わると衆生を救う阿弥陀仏も、現在では習俗と化していて信仰とは考えないほど身近な恵比寿さんや天神さんにも、各々心惹かれる処があるのです。日本の風土として定着している仏教や神道と比べてみると、私にとって最初のハードルの高さはキリスト教のハードルが一番高いかも知れません。キリスト教には唯一神と真正面から向き合って自発的に関係を持つという厳しさがあるように思い、それは多神教と言われる仏教、神道には無い処です。

   このような状況の中で外来とされているキリスト教を選ぼうとしている私にとって躓きの石となる処がいくつかあります。それがイエスの復活であり、最後の審判などです。イエスは果たして本当に復活したのだろうか、「ヨハネによる福音書」に書かれているトマスのようにキリストの傷に直接触れてみなければ信じる事は出来ないのでしょうか。正直に言って私にはまだ解かりません。しかし信仰とは見ずに信じる事なのかもしれません。

   更に最後の審判に関して言えば、キリスト教誕生から数えて2000年、その前身である旧約の世界 ── ユダヤ教の誕生やそれに影響を与えたオリエント諸宗教の時代から考えれば3000年から4000年もの時間が経過しており、その間に様々な事があり、最後の審判の時が近づいたと述べられた時もありました。しかし今の私にとって最後の審判の時を問う事は無意味な努力に終わるような気がしており、その時がいずれ何時の日か、必ず来るのだろうと漠然と考えるだけです。このような私の疑問に関しても、今までに様々な教義が説かれており、キリスト教内部的には既に公式見解の出た解決済みの問題であると思いますが、私の血となり肉となる解決はまだ手に出来ていません。「不合理故に我信ず」という言葉が伝えられていますが、私の思う合理的な理解、解決方法を手にする事は可能なのか否か。神=宗教の世界に合理的(あくまでも私の考える)解決は在るのか否か。理解に基づく信仰は存在するのか否か。同じ出発点に戻って前に進めずにいます。
周囲の方々からは「くよくよ考えていないで新しい世界に飛び込んでみれば総べては解決するかも知れない」とか「幾ら考えても考えられる範囲は狭くて総べての疑問を考え尽くす事は出来ない」とか、又「考えているだけではなく、誰か周囲に居る尊敬出来る信者の方の生き方、考え方をモデルにすると好い」アドバイスを頂いていますが、受洗を決意できません。「迷える子羊」なのか「放蕩息子」なのか自分では解かりませんが、まだ心の準備が出来ていないと、誘いを断る頑なな私が居ます。確固とした信仰に入る事の出来ないこのような私ですが、これからも皆様のサークルのメンバーとして参加させていただき、何時の日か、名実共に真の共同体の一員となれる事を願っております。

ありがとうございました。
 

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《「勉強会」便り》18

  1. 107から109までの三つの設問が「神の国」についての解説になっている。それぞれの問い掛けを通して、「神の国」の解釈について本質的な三つの方向性、すなわち、人間の心の中の問題(設問107)、キリスト論的な立場(設問108)、教会論的考え方(設問109)という方向性を理解させようとしている。
    「神の国」は英文ではthe Kingdom of Godで、原訳では「神の王国」となっていた。教会用語として通常「神の国」が使われているので、この訳語を用いたが、「カトリック教会の教え」は「『神の国』は『神の王国』乃至『神の王としての支配』と訳されるべき」と云っており、ベネディクト16世の「ナザレのイエス」も「『神の国』という訳は不十分です。神は主である。神は支配しておられるという方が正しいでしょう」と指摘している。

  2. 107の「罪人のうちでも最も悪い人でも(Even the worst of the sinners)」の「最も悪い人」とはどんな罪人なのか、について色々議論が交わされ、「どんな罪人であっても」という意味だろうということになったが、訳としては意訳せず、「最も悪い人」を採用した。

  3. 110の「ご自身の『最期』(ルカ9:31)について語りながら」の「最期」は英語ではhis departureである。新共同訳聖書で「最期」となっているので、これを採用したが、適切な訳がどうか問題であろう。Departureは本来「出発」の意味であり、ルカ9:31のhis departureには「過越しの神秘」が含意されているように思われる。ちなみに、The Jerusalem Bibleでは、この箇所は his passing であり、Catholic Bible Press のThe New American Bibleではhis exodusとなっている。
    余談ではあるが、参加者の一人から、最近アカデミー賞受賞で話題になった日本映画「おくり人」の英語名は「Departure」であったとの指摘があった。

  4. 112の「イエスの受難、死、復活および栄光」の「栄光」は英語ではglorificationで「神の栄光を授かった状態、栄化」を意味するが、日本語の文章にうまくなじまないので単に「栄光」とすることにした。「過越しの神秘」について「カトリック教会の教え」は「イエスのあがないの受難と死は、神のいのちの勝利である復活において完結します。教会は、これを過越しの秘儀とよび、二つのことがらではなく、一つのプロセスとしての出来事と理解するよう勧めています。」と解説している。(p98)

  5. 今月の感想文はYさんから頂いた。

 

「カテキズム勉強会に出席して」

   昨年の夏、カテキズム勉強会へのお誘いを受け、一度見学だけでもと出席させて頂きました。
   私は教会に通う年月も浅く聖書の理解と信仰に関してまだまだ充分でない状態ですが、出席したその日の設問に関しての皆様のさまざまなご意見を聞かせて頂き、より良い解釈と、その内容の意図に少しでも理解を深めようとの自由な発言を聞かせて頂くことが出来ました。
   とても私のレベルでは難しく無理と思いつつ、有意義な楽しい時間を過ごさせて頂きました。
   個人として、キリスト教との出会いは子供達が通うそれぞれの学校で行われる父母のキリスト教要理の会からです。特にイエズス会のスペインの神父様のお話が豊富な生活体験から語られる内容が束縛のない自由で楽しく心に残りました。今になり思えば、何も分からないものに心を込め熱心にお話をしてくださったように思います。
   あれから長い年月がたちましたが、心の隅にいつか聖書を始めから最後まで読んで見たいという思いが残りました。教会に通い始め、その機会にも恵まれ、そして今、カテキズムの勉強会にも参加させて頂いております。
   神様はいつか願いを聞いて下さり、その人の一番良いときにお導き下さるように思われました。
   毎回、会を進める準備をして下さる方々に心より感謝申し上げます。

 

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《「勉強会」便り》19

  1. 4月度はユダヤ人は、なぜイエスを死刑に処することを望んだのか?をめぐって、参加者から様々な意見や感想が述べられ、設問113のみの検討だけで時間が来てしまったので、5月度の勉強会と合わせて「勉強会」便り19をお届けする。

  2. 設問113に関して、イエスが自らを神の子と宣言したことから、神を冒涜する者として死刑に処せられた事は、当時のユダヤ社会のことを考えると、現代のわれわれにも理解できる。しかし、安息日に手の不自由な人をイエスが癒されたことに対して、ファリサイ人が「どのようにしてイエス殺そうかと相談した」(マタイ12:14)事をわれわれが理解するのはかなり難しい。

  3. 設問114の後半の文節で「罪を償う死」は英語ではhis expiatory deathで、「あがないを行う」はmaking atonementとなっている。動詞形のexpiate, atoneを辞書で引くと両方とも「償う」となっている。Expiateは「弁償する(compensate)」,atoneは「和解する(reconcile)」というニュアンスが強いと思われ、上記にように訳した。

  4. 設問115に出てくる「神殿の破壊の予告」はAD70年におきた第一次ユダヤ戦争の時に実際にローマ帝国によってエルサレムの神殿が破壊されたことを指す。共観福音書はすべてイエスが十字架上で死を遂げられたとき「(神殿の)垂れ幕が上から下まで真二つに裂けた」ことを伝えているが、これは、キリストご自身が新たな「神殿」となられたことの象徴と理解することができる。

  5. 設問117の「キリストの死に責任があるのは誰か」という問いに関して、カテキズムは598項で「キリスト者はその責任をあまりにもしばしばユダヤ人に押しつけてきました」と解説し、教会の過去の非を認めている。
    117の第二文節の「あがない主の苦しみの原因となり、苦しみを招いた」と訳したところは、英文では the cause and the instrument of the sufferings of the Redeemer である。Instrumentは「手段」の意味であるが、参加者の一人から、 instrument は「ある事柄の原因となった側からの視点でみるときに用いることがある」との指摘あり、また辞書の用例に be instrument of his death が「(誤って)彼の死を招く」とあることから、「苦しみを招いた」と訳した。

  6. 今回の感想文はN氏にお願いした。

 

《カテキズム勉強会での感想》

   2年前の10月からこの勉強会がスタートしました。発足当初から参加したというか、させられたというか主体性のないまま今日に至っております。

   振り返ってみると、中学1年生の終わりに洗礼を受け、以来教会から離れたり、また戻ってきたりしながらも、どこかにキリスト教の教義や様々な方との交わりが忘れられず、会社生活をリタイアし、故郷に戻ってきたことがきっかけで夙川教会の一員とならせていただきました。長い信者歴ではありますが、聖書や要理の勉強は殆どしたこともなく、教会の使命である福音宣教など全くおこがましい心境でしたので、何か機会があればとの思いから参加いたしました。この虚弱な意思と英語が大の苦手である私の後押しをしていただいたのが、この会の世話をやっていただいてるKさんのきつい一言?!でした。でも今はこの一言に感謝しておりますよ。

   この勉強会もスタートした頃は、教義に大変詳しい方のお話を傾聴させていただいたり、翻訳の表現方法について議論が展開されておりました。内容的にも「神と人との関係」「神の啓示」「信仰」「三位一体」といった本質論から、信仰宣言に沿って「天地創造」「人の創造」などに移り、「イエスキリストの生誕から死」について現在学んでおりますが、勉強会も1年半経過し、参加メンバーの交流も深まってきたことで、普段抱いている疑問や意見がどんどん出だしてきております。特にキリスト生誕とマリア様の関係、死に至らしめたポンティオ・ピラトについての考え方など異見が百出し、なかなか次の節に進めない状況です。同じ信徒でありながら、こんな考えもお持ちだということも分かり、大変楽しい会になっております。

   カテキズムの要約であるコンペンディウムは、全章で598節あり、現在119節まで進んでおります。この英文を翻訳した書物は発刊されておらず、夙川教会のHPに掲載される進行途中の訳文を興味を持ってご覧の方が多くいらっしゃるとのこと。章を進めることも必要ですが、参加される各々の方が、本音を出し合いながら内容を深めていく会であると思っております。

   最後になりますが、当会を強力なリーダーシップで支えていただいているKさん、そして難解な英語を翻訳して叩かれている三名の方には心より感謝申し上げます。
 

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《「勉強会」便り》20

  1. 設問120の解説で、12使徒(後の司教達)に祭司職がイエスから与えられたのが「最後の晩餐」の時であったことが明確に示されている。敍階の秘跡によって司教および司祭に与えられる祭司職のルーツは「最後の晩餐」なのである。
    エウカリスチアという言葉を用いたのは、カテキズム611項に「イエスがこのとき(最後の晩餐の時)に制定されたエウカリスチアは、ご自分のいけにえの記念となりました」という説明があるからである。このエウカリスチアという語は、「聖体」と訳されることが多いが、エウカリスチアはもっと広い意味があり、ミサの「感謝の祭儀」全体のことを指す言葉である。

  2. 設問122で「あがなう(あがない)」と訳した言葉は英語ではredeemである。設問114でも「あがなうことができる唯一のいけにえ」と訳した箇所があり、ここでの「あがなう」は英語ではmaking atonementである。redeemとatoneとではどんなニュアンスの違いがあるのか、ということが問題となった。
    参加者の中から、一度、「あがない」について専門家の司祭から詳しい説明を聞く機会を持ったらどうか、という意見も出された。「あがなう」と仮名表記するのは、カトリック教会の用法であり、人類の救いに関する特別な意味を持たせているように思う。
    122の結びの「キリストの過越しのいけにえは、・・人類に対して神との交わりの道を開きます」の「交わり」はカテキズムの訳語に従ったもので、原訳では「一致」であった。英語ではcommunionでラテン語のcommunioにあたる。この語は「聖体拝領」「交わり」「一致」「聖徒の交わり」などの意味で使われる言葉であり、「一致」と訳しても決して間違いでないと思う。

  3. 設問124の「墓の中のキリストの体」の問題は参加者の最も興味ある話題であった。一言で紹介することは難しいので割愛するが、医師である参加者の方から、人間の「死」について興味深い話を伺った。死とは霊魂と肉体の分離であるなら、まさしくその状態をキリストは体験した(キリストの死は本当の死である)と教会は教えるが、その存在のありようは神秘であるともいう(カテキズム624項)。「神としてのキリストのペルソナは、死によって互いに分離した霊魂と肉体とを担い続けられました」(630項)と解説するが、それがどのような状態なのかは神秘である。

  4. 今月の感想文は、夙川教会のホームページに「信徒にカテキズム勉強会」が掲載されて、6月で丁度一年になるのを記念して、この会の世話係をしているKが記したものである。

 

《ホームページ掲載一年を振り返って》

わたしたちの「信徒によるカテキズム勉強会」は07年10月に発足し、08年6月から夙川教会のホームページにその内容(「コンペンディウム:カトリック教会のカテキズム」の訳文と勉強会便り)を掲載することになって一年経ちました。ホームページ掲載が始まってまもなく、長崎教区の司祭の方と東京教区の信徒の方から、世話係をしている私のところに激励のメールを頂きましたが、ご両名とも私とは面識のない方であっただけに大変嬉しく思うと同時に、ネットの世界の恐ろしさを痛感させられました。ホームページに掲載するということは、夙川教会として公式に世界中に情報を発信することで、その内容に責任を持たねばなりません。

勉強会の使用テキストである「コンペンディウム:カトリック教会のカテキズム」はベネディクト16世によって05年6月に公布されて4年も経つのに、残念ながら未だ日本語版が出版されておりません(先日、司教協議会の出版部に問い合わせたところ、この本の出版は早くても2010年の年末になるそうです)。

この本が教える優れた教理内容を、われわれ夙川教会の信徒が、日本の全教会に先駆けて学ぶことができるのは、この本の英語版(06年3月初版)の翻訳を逝去される直前まで試みられた故小池二郎神父と、勉強会のために翻訳の労をとって下さっている3人の信徒の方々のお陰であることを忘れてはなりません。この方々に心からの感謝と敬意を表したいと思います。

毎月の会合では、この翻訳文(原訳)を使って、平均して6項目(6設問)位を討論し、勉強しています。この勉強した部分を、翌月に正式訳文としてホームページに掲載するのですが、この作業は、その責任上、かなり神経を使っています。ホームページ掲載の訳文は、原訳を相当修正したものになっており、そのプロセスを紹介しますと次の通りです。

@ 聖書の引用文はすべて新共同訳聖書に統一する。
A 英語版コンペンディウムで使われている用語や文節が、「カトリック教会のカテキズム」(英語版)の用語や文節に一致する箇所があれば、その部分はすべて日本語版「カテキズム」の訳文に従う。
B 毎月の会合で討議されて、より適切な表現が合意されれば、その表現を採用する。
C 以上の修正を加えた翻訳案を、翻訳の労をとって下さっている3人(現在では4人)の方にチェックしてもらう。
D 掲載に先立ち梅原主任神父に原稿に目をとおして頂く。

わたしたちのカテキズム勉強会が発足して、もうすぐ2年になり、6月で21回の会合を開いたことになりますが、ご自分の信仰の基礎を固めるために教会の教え(教理)を体系的に学びたいと望んでおられる信徒が沢山おられることを強く感じました。一昨年の10月にどれ位の人が来てくれるのか不安に思いつつ、最初の会合を開いたのですが、十数名の方が参加して下さいました。その中の半数近い方は、私にとって顔は見たことはあるが、名前も知らず親しく話しをしたこともない方々であったことは世話役を買って出た者にとって大変心強いことでありました。以降、毎回の会合に少ない時で12-3名、多い時には20名近くの方々に参加して頂いています。この会の特徴は、男子の参加者の比率が他の教会の会合に比して非常に多いこと(毎回の参加者の半数以上は男子)、近隣の小教区からの参加者がおられることなどと思います。また、毎月のわたしたちの勉強会に参加したいのだが、他の教会活動のために出席できないとお断りの連絡を下さる方が結構いらっしゃることも報告しておきます。現に7月の会合に欠席の通知として次のようなメールを頂いております。

「いつもカテキズムのご案内有難うございます。何とか出席させて頂きたいと思いながら、なかなか果たせず残念に思っております。7月19日(日)は住吉教会で主日のミサの後、11:00から評議会を招集しておりますので、今回も欠席させて頂きます。資料を頂いておりますので、それなりに勉強しております。また何か新しい資料がありましたら、メールにてお教え下さい。暑さの折、ご自愛下さい。皆様によろしくお伝え下さい。」

以上
 

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《「勉強会」便り》21

  1. 7月の勉強会は4月の会合と同様、参加者の積極的な発言があり、設問125のみの検討で終わった。「陰府(よみ)」という用語に関する議論と、キリスト教徒ではなかった自分の親を初めとする肉親や先祖は死後どうなるのかと云ったことが話題の中心であった。
       陰府という用語は、キリスト教用語、それも新共同訳聖書の使用が定着してから普及した言葉である(日本語に「よみ」という死後の世界を表す言葉があるが、漢字で表記すると「黄泉」である)。
       また、使徒信条にカトリック教会が「陰府」という用語を採用したのは2004年のことで、それ以前は「死者のもと」という表現になっていた。また文語の使徒信経(信条)では「古聖所」となっている。「陰府」や「古聖所」は解説を聞かなければ、一般には何を意味する語か不明である。
       設問125の解説にあるように、「陰府」が「善人も悪人も、キリスト以前に死んだすべての人々の状態」であるなら、「死者のもと」の方が判り易いし、イエスが下って行かれたのが「陰府の正しい人たちのところ」であるなら、「古聖所」と表現するのも意味あることのように思える。日本語の「陰府」「死者のもと」「古聖所」は、どれも「地獄」をイメージする言葉ではないが、英語のヘル(hell)は、「陰府」と「地獄」の両方の意味に使われるので、設問125の冒頭に「この『陰府(ヘル)』は永遠に罰せられた人たちのいる地獄(ヘル)とは異なっていました」という解説がなされている。

  2. 8月の勉強会は設問126から131までのイエスの復活に関する箇所であった。参加者の関心の中心は、設問127と128で扱われているイエスの復活が歴史的事実であると同時に、歴史を超越する信仰の神秘の問題であるという点にあった。
       日本では、イエスの復活が歴史上の事実かどうかを問題にする以前に「イエスの復活は、後からイエスの信奉者が勝手に作り上げた架空の物語である」と頭から思い込んでいる人が圧倒的多数であるだけに、設問127の解説に「復活は使徒たちの目には不可能に思われたので、彼らが復活の物語を創案することはあり得なかったでしょう」と明記している意義は大きいように思う。
       カテキズムは「空の墓」はそれ自体復活の直接の証拠ではないが、本質的なしるしであるとし(640項)、イエスの復活を証言する人が多数いたことを指摘した上で(641,642項)、643項で「以上の証言を前にして、キリストの復活をその身体的側面を無視して解釈したり、歴史的事実として認めない事は不可能です。」と断言している。
       その一方で、設問128で、まことの神であり、まことの人であるイエスがその人性を伴って神の栄光に入られたという事実は歴史を超越する信仰の神秘に属する事柄であると説明し、そのことが復活したイエスがご自分を現されたのが、世間一般の人々にではなく、弟子たち(信仰者)に限定されている理由であると解説している。

以上
 

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《「勉強会」便り》22

  1. 9月の勉強会はキリストの昇天と(世の終わりの)キリストの再臨がテーマである。設問132で復活後40日の間は、イエスは「ご自分の栄光を隠して、普通の人間の姿でイエスは使徒たちに現れた」と説明されているから、「復活の栄光の姿」のイエスを見た使徒は誰もいなかったことになる。栄光の姿のイエスは世の終わりの再臨の日まで待たねばならないというのが教会の教えである。ただペトロとヤコブとヨハネだけにお示しになった「イエスの変容」(マタイ17:1−3)のお姿は、「復活の栄光の姿」の先取りであったと解釈できると思う(この点を梅原主任神父にお尋ねしたところ、同じお考えであった)。

  2. 設問133で「栄光に挙げられたキリストは、教会のうちにすでに種の形で、またその始まりの形で神の国が現存している地上に神秘的にとどまられます」と訳した箇所の英文は“the glorified Christ mysteriously remains in seed and its beginning in the Church”であり、英語版カテキズム669項に同じ表現があり、そのin seed and its beginningの部分を日本語版カテキズムは「芽生えと開始として」と訳しているが、参加者からseedには「芽生え」の意味はないという指摘があり、原訳の「種の形で、またその始まりの形で」を採用することにした。

  3. 設問134の「過ぎ去るこの世界の最終の宇宙的崩壊」はカテキズム677項から採った訳文であるが「崩壊」と訳している英語はupheaval である。upheavalに「崩壊」という意味があるのか疑問である(ちなみにわれわれの原訳は「大変動」であった)。

    設問134の解説を読むと、世の終わりに最後の審判(公審判)が行われるのは「神の国」の実現のためであることがよく理解できる。7月の会合で設問125の陰府とは何かを議論したとき、なぜ「私審判」と「公審判」の二つの審判があるのかが話題となったが、キリストの再臨と神の国の実現を念頭におくと公審判の意味がよりよく理解できるように思う。

以上
 

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《「勉強会」便り》23

  1. 10月で、この勉強会を始めて丸2年になる。2年で24回の会合を重ね、やっと第一編第二部の最初の2章が終わり、第3章の「聖霊」に関する勉強に入ることとなった。2年の年月を経て、この勉強会が何をやっているのか、周囲の人たちにも、だんだん理解されるようになり、新しく参加して下さる方が徐々に増えてきていることは喜ばしいことである。10月の集まりにはわざわざ阿倍野教会から来て下さった方があった。

  2. 設問136で聖霊とは何かを“御父と御子から出て「父と子とともに礼拝され、栄光を受ける」至聖なる三位一体の三番目のペルソナ”とニケア・コンスタンチノープル信条の文言を使って説明している(2004年2月の改訳以前は「父と子とともに拝み、あがめられる」となっていた)。夙川教会では第3日曜日の信仰宣言はニケア・コンスタンチノープル信条を使うことに決まっているが、この信条を使うことによって、信徒が自分の信仰理解をより深くするのに役立っているように思われる。

  3. 設問138でイエスは聖霊を真理の霊と呼んだと紹介されているが(また143は「神の御子はその教えの中で聖霊を啓示した」と云っている)、参加者の一人から「新共同訳聖書コンコルダンスー聖書語句索引」で調べてみると、「聖霊」という言葉は新約聖書にだけ使われているもので、旧約聖書には使われていない、という指摘があった。これに対し他の参加者から、バルバロ訳の「聖書(旧約・新約)」の索引の「聖霊」の項には旧約聖書の幾つかの箇所(創世記41:38、出エジプト31:3、ネヘミヤ9:20、知恵1:5,9:17、イザヤ11:2など)が引用されているから、旧約聖書に「聖霊」という言葉は使われていないと、必ずしも云えないのではないか、という疑問が出された。後日、バルバロ訳聖書索引の「聖霊」の項で引用されている旧約聖書の箇所を調べてみると、聖霊の働きを示す「神の霊」、「聖い(きよい)霊」、「聖なる霊」、「主の霊」などの言葉が使われているだけで、「聖霊」という言葉自体は使われていないことが確認された。

以上
 

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《「勉強会」便り》24

  1. 昨年12月に入って、われわれの勉強会がテキストに使っている「コンペンディウム―カトリック教会のカテキズム」の日本語版が中央協議会から2010年の2月に発売されるというニュースが伝わってきた。朗報である。これまではわれわれ勉強会のメンバーによる試訳をテキストとして使用し、毎月の勉強会で検討した部分の翻訳を夙川教会のホームページに掲載してきたが、今後はその必要はなくなることになり、また、翻訳をサイトに掲載するに際し、池長大司教から「コンペンディウムの日本語版が発刊されるまで」という条件で翻訳掲載の許可を頂いていたことでもあり、今回をもってホームページ上での翻訳掲載は終了することになる。

    約2年に亘る翻訳掲載を暖かく見守ってくださった方々に深く感謝致しますと共に、われわれの勉強会のために、翻訳の労をとってくださった有志の方々に心から御礼申し上げます。

    なお、ホームページ上の「信徒によるカテキズム勉強会」欄は、梅原主任神父のご意向もあり存続することになりますが、どのような内容にするかは、勉強会のメンバーの皆様と相談し、決定することにします。

  2. 11月と12月の会合で翻訳上問題となった用語はmissionであった。この用語は設問143、144(2回)、150で合計4回使われている。Missionという言葉は、一般の日本語としては「使命、役  割」の意味で使われているが、この語は本来、キリスト教用語であり、「(神が子を、または子が聖霊を)使わすこと、派遣」を意味する。翻訳上、同一用語同一訳が原則であるから、missionはすべて「派遣」と訳すべきだが、設問150のWhat is the mission of the Church ?のmissionは「使命」と訳さざるを得なかった。カテキズムでもmissionを737,738項では「派遣」と訳しているが768項では「使命」と訳している。

  3. 「聖霊降臨(ペンテコステ)の日は教会の誕生日」というような解説を日曜のミサなどで何回か聞いたように筆者は記憶する。教会の本質的な使命が福音の宣教にあり、使徒たちが宣教を公に開始したのがペンテコステの日であったことを考えれば、正しい解説であるが、設問149に「(教会は)キリストの言葉と行いによって創設され・・」とあり、また設問143には「(神の御子=キリストは)、復活のあと使徒たちに息を吹きかけることによって生まれたばかりの教会に聖霊を与えました」と説明されている事を考えれば、キリストによる教会の創設は厳密にいえば、聖霊降臨以前のことである。

  4. 設問147から教会に関する説明が始まっているが、種々の側面から多岐に亘る解説がなされているのが特長となっている。過去に中央協議会から発刊された「カトリック要理」を調べて見ると第二ヴァチカン公会議以前のもの(1960年刊)と、公会議後の改訂版(1972年刊)とでは、「教会」の取扱が随分かわってきていることに気付く。1960年刊の「カトリック要理」では「教会とは何ですか」という設問があり、「教会とはイエズス・キリストをかしらとして、その代理者のもとに真の教えを信じ、救いの手だてを持つ信者の団体です。・・」とあり、その後に聖職位階制度に関する説明が続いている。これに対し、公会議後の改訂版(1972年刊)では設問が「教会とはどういうものですか」と改めあれており、「教会は神の啓示によれば、いろいろな側面をもっており、次のようなものとしてとらえられています。救いの普遍的秘跡、神の民、キリストの神秘的からだ、キリストのさだめた役職制度を持つ集まり」となっている。われわれの学んでいるコンペンディウムでは、設問147以下で、カトリック要理改訂版を上回る多面的な解説がなされている。

以上